優しい相棒

 本の扱いは雑なほうかもしれぬ。殆どの本は端という端が折れ、いや本全体にヘンな癖ついて歪んでしまっている。カバーは部屋の隅に落葉のごとく積み重なっている。表紙がカサブタみたいに不安定にめくれてくると、一息に破って棄ててしまうか、セロテープで固めたりする。スピンは脆すぎて困る。しかたなくつけた折り目の数で、自分がどれほど怠惰なペースで読んでいるかがわかる。いけないのは、夜勤明けにソファで仰向けに寝そべって読むことだ。顔の上に本がばさりと落ち、その度に目を醒ましては同じ箇所をひたすらなぞっているうち、知らぬ間に寝入ってしまう。起きると本は枕や躰の下で潰れていたり、開いた状態で床に投げ出されている。飲み食いしながら平気で読む悪癖のせいで染みがつき、ボールペンで蚯蚓のような歪んだ棒線をやたらに引くものだからページは黒々と穢らしい。それで、これはもう読めたものじゃないな、と思うと躊躇なく棄ててしまう。……

 同時に五冊も六冊も手をつける。抱きたい女を抱きたいときに抱く悪政の王のように振る舞っても、本は決して俺を責めたりしない。酒を飲みながら読むこともある。行儀がいいとは言えないが、片手で本を開き、もう片方の手で刺身をつまんだり缶ビールを傾けるのだ。しかし何といっても、電車の座席ほど読書に没頭できる場所はない。殊に、それほど混んでいない真冬の各駅列車の末端席。温かく柔かな座面と、不意に開いた扉から吹く刺すような外気、仄かな騒めきと心地よい揺れ、俺は前傾し両肘を股に乗せて本を開く。......気付けば降車駅を通り過ぎていて、川崎駅に着いてしまう。やむなく降り、乗り換えることなくふらふらと改札を抜ける。冷たい風に追い立てられるように信号を渡る。ふと、白壁造りのバーが眼に入る。喉は乾いている。読みさしの「政治少年死す」という肴もある。重いガラスの戸を押して入る。ホットパンツからしなやかな脚を伸ばした女が、カウンターで黒褐色のビールを飲みながらバナナチップスを齧っている。俺は女の背面にあるスタンディングの丸テーブルに案内された。水曜の夕方だが席は殆ど埋まっている。ピザを食わないか、と女に話しかける者がいる。ダブルのスーツを着た老紳士だ。どうしても食べたいんだが、一人じゃいかんせん食い切れん。女が微笑む。俺は彼らを横目に嫉妬を噛みながら、性的少年から政的少年へと傾いていく一回り歳下のセブンティーンの物語に入っていこうとする。ねえ、あなたも食べない? と歌うような声が降る。顔をあげると、女が俺をふり返っているのだ。さぞ迷惑そうな顔をしているのだろうなと、ちらと老紳士を見やると、意外にもにこやかだ。ピザは大好きだが、いまは他人と飯を食うのは気が重かった。口ごもっていると、女が長い脚をスツールから下ろし、老紳士の腕をとって俺のいる丸テーブルにエスコートする。ブルーミスト・モヒートくださる? とグラスと運んでくるバーテンに言いつける。空気を読まんか、という罵りを眼光の中に探ったが、老紳士の小さな目はあくまでも穏やかに潤んでいる。ほお、と嗄れた声を老紳士はあげ、テーブルにひらかれたまま置かれた「政治少年死す」を眼鏡越しにまじまじと見た。浅沼委員長が刺し殺されたあれだろう、うん、憶えているよ、さいきんの若者は物騒だなどというが、あのころに比べれば赤子みたいなもんだ。女はモヒートを一息に飲み干し、つまんない、と叫んだ。ははは、きみには退屈か、と老紳士がわらう。生地の厚いピザを食い、たらふく酒を飲んだ。老紳士はテーブルに肘をついて、ウトウトとしだした。女は悪戯っぽく笑い、どうする、出ちゃおうか? と俺の目を凝と覗いた。商売女かもしれない、ホットパンツから伸びる白い肉を見て考えたが、どうでもいいとも思った。俺は酒手がわりに分厚い全集をテーブルに残し、女の腰を抱いてひやりとする夜気に包まれた繁華街に飛びだした。……

 本を読んでいると、知らぬ間にそんな妄想にとり憑かれていることはままある。ページをめくる手はとうに止まっている。俺は創造の泉にどっぷり浸かっている。小説自体が俺にとっては発想の源だ。筆が止まったらまず小説を読む。文体などの影響は考えずにとにかく手にとる。即席の影響など推敲しているうちに消えてしまう。それに本を拡げたからといって、小説世界にのめりこむ必然性はない、読書と空想は、能動的かつ自由という点で相性がいい。抱いている最中に他の女を想い浮かべ、あるいはその名を叫ぶような男は、ふつう糾弾される。しかし本だけは厭な顔一つしないのである。……

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