懐胎
アパートに帰ってくると、玄関に見知らぬ汚れたズック靴があった。父親は仕事に出ているはずだし、靴もふた回りは大きかった。中に入ると、作業着の男が缶コーヒーを呑んでいるところだった。男は俺に気がつくと黙ったまま会釈した。見たところ同年代らしい、坊主頭の寡黙そうな男だった。男は缶を潰してポケットにねじ込むと、これから焼き切るんで、ちょっと響きます、とボソリと言った。大家の指示で、劣化した給湯器を交換して廻っているらしかった。業者が勝手に上がりこむのには馴れっこだった。俺は男の為にレッドブルを、自分の為にビールを何本か冷やしておいた。風呂に入りたかったが、作業中は水しか出ないらしい。部屋には鉄工所さながらの鋭い音が響き渡り、テレビや読書どころじゃなかった。俺は腕立て伏せをしながら作業の終わるのを待った。
やがて音が止んだ。台所に出て行くと、男が袖で汗を拭いながら、赤く錆びた古い給湯器を切断した獣の首みたいにぶら下げて立っていた。こんなモノがベランダの壁の何処についていたのだろう。俺は冷蔵庫からレッドブルを出してやった。男は受け取ろうとせず、戸惑ったように俺の手元を凝と見つめた。おやと思って手元を見て苦笑した。差し出したのはビールだった。あ、違う違う、そう独りごちてビールを冷蔵庫に戻そうとすると、もう一軒だけ残ってるんで、それ終わらせたら貰いに来てもいいすか、と男が言った。いいですよ、そう答えるほかなかった。作業がどのくらいで終わるのか知らないが、俺はこの男が戻ってくるまで起きておかねばならないわけだ。だが、残り一軒というのがせめてもの僥倖だとも思えた。書類にサインをすると、男は真冬だというのに強い汗の匂いを残して隣室に消えた。
ようやく風呂だ。さっそく湯を出した。いつもなら、三分と待たずに冷水にかわり、不安定に温度が上下して俺を苛つかせるのだが、今朝は一向に下がらない。これだよ、これ。俺は機嫌良く呟いた。女にも報せてやろうと思った。めっきり来なくなった途端のことだから、さぞかし嘆くだろうと想像した。奴は自分を座敷童子だと嘯いていたが、それは顔貌だけのことで、単なる貧乏神にすぎなかったのじゃないか? ああ、いつまでも溢れ続ける温かな湯、久々に人並みな暮らしを体感したような愉快な気分。......
そういえば、このアパートに越してきてから十年間、湯を張ったことがなかった。溜めようにも、流し続けると勝手に水に変わるのだから溜めようがない。その度に一度栓を締め、まず赤を全開にひねって熱湯にし、青を少しずつ回して温度を調整せねばならない。たいへんな手間なのだ。
湯船に斜めに置かれたブラシで、埃っぽい浴槽を擦ってみた。女が金魚の水槽を洗うタイミングで、月に一度くらい掃除していたのは知っていた。このブラシも、たぶん女が買ったものだ。新しい男の家では、バスボムでも入れてゆっくり湯船に浸かってくれていればいいのだが。
一旦始めてしまうと、一欠片の黴でさえ赦せなかった。台所まで重曹を取りに戻るほど熱中した。湯を溜めている間に躰を洗ったが、たちこめる湯気ですっかり逆上せてしまい、湯に浸かる気がいささか失せてしまった。そのまま上がって、女が正月に川崎で買った福袋に入浴剤があった気がしたから部屋を漁った。その時ベルが鳴ったのだった。
肌着とパンツだけを穿いてドアを開けた。作業着の男が憮然とした顔で突っ立っていた。獣のような臭気が襟元からにおった。滑稽だと思ったが、ビールの前にひとっ風呂浴びたらどうかと提案した。男は、じゃあ、と言って素直に灰色の作業着を脱ぎ出した。白いシャツは垢や汗で黒々と汚れている。隆々とした筋肉が現われたのには驚いて、何かやってたんですか、と思わず訊いた。野球を、と言葉少なに男は呟いて、ボクサーパンツを抜ぐと湯気の中に消えてしまった。俺はビールを箱から出しながら、まるで若妻だなと苦笑した。男色を憂慮しないでもなかったが、無骨な指に鈍く光るものがあったから心配はあるまい。男は早々に上がってきた。まるで鴉の行水だ。湯加減はどうでしたか、と訊くと、長風呂は嫌いだからシャワーで、と素っ気なく言った。ビールを渡すと、一息で干してしまう。早いなァ、まだあるんすけど、入れたばっかでヌルいですよ。男は口元を拭いながら腕時計をちらと見て、氷ありますか、と黄ばんだ歯を剥いて笑った。
きょうは休みですか、と男が指についたスナック菓子をしゃぶって言った。ああ、おれは夜勤なんで、これからなんですよ。男はどうしてか莞爾と笑う。おれも夜勤です、帰ったら少し寝て、それから警備のバイトを。酒のペースが異様に早い。だが強いというわけでもないらしく、空けるごとに顔が猿のように赤黒く染まっていき、饒舌にもなった。
三人目が六月に生まれるんでね、それで稼げるうちに躰に鞭打ってるわけです、金ばかりかかりますからねェ、産むだけで十五万も取られるんですよ、ひどい国です、こっちは少子化に歯止めをかけようと寝る間を惜しんでオマンコしてるってのに、でもね、希望がないわけじゃない、ここだけの話、弟の奴がね、やりやがったんですよ、あの無職のボンクラ、一攫千金狙って強盗したんですよ、パチ屋の集金のババア襲ってね、バットで一発、ネットでニュースになってんの見て、あァあいつホントにやりやがったって、あの日から連絡がつかないんだから間違いない、それがふた月経っても捕まらない、莫迦の癖して、仲間がいるんだろな、まんまと逃げおおせたわけです、まァ警察も暇じゃないからね、ましてパチ屋なんて元々が害悪でしかないから、捜査はすぐに打ち切られちまう、んで、あれよという間に二店舗目だ、お次は川向こうの街です、見事というほかないね、二千万だとさ、莫迦莫迦しくなるね、でもまァ身内だからな、いつか連絡がきて匿う時が来るだろうから、そん時はおれも一味に入れてもらうつもりなんです、下らない給湯器の修理なんぞ、そう長くはやってられませんわ、ガキども養うには、おれもここらで一攫千金狙わにゃ。……
俺は次々とビールを渡しやって、嘘か誠か分からぬ弟の人となりを延々と訊いた。実在するのだとしたら、大した悪党だった。俺は雪原のごとき原稿に墨滴の雨がふりそそぐ気配がしてくるのを感じ、酔漢と化してきた男をほとんど締め出すように帰らせた。それからふと風呂場を覗き、浴槽にたっぷりと張られた湯に指を入れてみた。まだ仄かに熱があるし、沈殿物もなかった。赤い栓をひねって、シャワーヘッドを沈ませると、俺はその場で全裸になって少年のようにザブンと勢いよく飛び込んだ。作業員の弟が、頭の中でムクムクとうごめき始めるのがわかった。兄に似た、無骨な指と短く刈った髪、腫れぼったい瞼と女のような色艶の唇、ああ、まるでこの浴槽は胎盤で、ぬるま湯は羊水だ。目を閉じた。徐々に熱量を増していく湯の中で、確かに何かを孕んだらしいのを感じた。たっぷりと汗を流して、快い気分のまま躰を拭いた。ひどく喉が渇いていた。人にやってばかりで自分は何も呑んでいなかったのだ。冷凍庫に入れていたビールは頃合いよく冷えていた。俺は裸一貫のまま台所でプルトップをはね飛ばした。作業員の男の妻が産もうとしている三人目の胎児と、俺自身が身ごもった空想の胎児の安産を祈って乾杯だ、そう思った。
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