真夜中の疑惑

　この店には女の客がほとんど来ない。カウンターに並ぶのは、物流施設の作業員、工事現場の肉体労働者、タクシーとバスの運転手、年金暮らしの老人、スナックから流れてくる酔漢、べらぼう口調の漁師、疲れ顔の会社員、夜を徘徊する不良少年、何を生業としているか知れたものじゃないならず者、そんな奴らの溜まり場だ。たまに、事情を知らぬ空港関係らしきすらりとした韓国女たちがガヤガヤと入ってくる。必然として豚どもの視線を一身に集めることになるのだが、少し迷惑そうな顔をしながらも長いこと喋りに興じている。女たちはいつも大量のスナック菓子が詰まったドラックストアの袋を下げている。きっと、どこかのジムで汗を流しているのだろう、一様にスタイルがいい。だが、制服の下の肢体に筋肉は感じられない。線が細すぎるのだ。トレッドミルやエリプティカルだけやっているのだろうか。それとも、その辺で寝泊まりしているパイロットや宿泊客の上で夜な夜な腰を振っているのだろうか。次に来たら、キムユンソクの画像でも見せて、チョアヘヨ、と囁いてみるか。……

　俺はレジに寄りかかって、客から携帯が見えないようにして様々な他人の書く記事に目を通していた。見知らぬ者が書いた、とりとめなく羅列された題を開き、短い記事をかたっぱしから読んでいく。膝を叩きたくなる文もあれば、不味い文もある。小説には限らない。クスリとする漫画もあれば、重々しい病の告白もある。女を口説くための指南に頷き、競馬のレース予想に目を走らせたりする。携帯をレジと釣銭機のあいだに挟んで、客が来るまで読みふけった。人通りのない深夜の二時だ。相方は賄いをかきこむなり、ゴミ庫の前の濡れた床にダンボールを敷いて仮眠している。俺も寝そべりたいが、冬は床が氷のように冷たくてかえって眠れない。相方は段ボールを重ねて、自前のジャンパーを着込んでいる。苔色のジャンパーの端は床の汚水に染みてしまっているが、相方はそんなことは気にも留めない。少し前から、この男からは浮浪者そっくりの臭いがする。シャンプーが切れたが金がなくて買えないとボヤいていたから、もしかすると湯さえ浴びていないのかもしれない。年末に未払いの住民税を給与から直に差し押さえられたのだ。一昨年も同じことをしていた。たぶん、今年の末もそうなるだろう。

　いつものように赤子みたいに両手で瞼をこすりながら、五十半ばの相方は少し遅れて戻ってきた。俺は賄いにすっかり飽きていたから、コートを着て近くのコンビニに飯を買いに出た。海から吹いてくる真冬の風を浴びながら、環八沿いを歩いた。俺が一生涯泊まることがないであろう高層ホテルは、夜中だというのに眩く煌めいている。目の前に白く烟るものを見て、自分が溜息を吐いたのだと気付いた。見知ったコンビニに入ると、妙だがアパートに帰ったときより安心する。できれば認めたくないが、それはあの腐ったアルバイト先にも言えることだった。商品の補充をしていたホセが、俺を見るなり笑って手を挙げた。この人懐こいネパール人に何か話しかけたかったが、退屈な日常を送る俺に話題など何もなかった。冷えるね、と俺はまったく無意味なことを口走った。そうだね、とホセが微笑んでくれる。気づまりな心もちを溶かすホセの優しい微笑が好きだ。だが俺はこの男のことは名札に書かれた名前しか知らないし、それ以上は知る必要がなかった。相方が、ホセが四月に国に帰ることを訊きだしていたからだ。忙しい？　とホセがいつものように訊いてくる。ホセは俺よりも二時間早く上がる。店の前を通るときに、俺が気づくまでずっと手を振っていてくれる。ホセは良い奴だ。

　弁当のほかに、何か甘いものが食いたかった。優しいホセはモップを中断し、俺が買物を終えるのをレジの中で待っている。作業が滞ればホセがオーナーに叱られるかもしれないと思うと、甘いものなどどうでもいい気もしてくる。俺は困った時のシュークリームを掴んでレジに向かった。ホセは入り口の方を向いていた。二人の女が店に入ろうとしていた。一陣の冷たい風と共に、中年の小汚い女と娘らしき若い女が入店してくる。二人ともマスクをしていて、ホテルの客らしく中年女はアシカでも入りそうなバッグを持っていた。俺もホセも若い女の、タイトなニットのワンピースから伸びる肉感のある脚にしばし釘付けになった。若い女はまっすぐにホセのそばに行き、世間話をし始めた。日本語で話してはいるが、発音的に女は中国人らしい。俺は嫉妬を感じながらも、どうせだからと甘いものを択び直すことにした。引き返してみると、中年女が奥のカップ麺の棚の前でしゃがみこみ、大きく開いたバッグに商品を入れようとしていた。この街に馴れている俺といえども、この光景には眩暈のようなものをふと覚え、思わずシュークリームを握ってしまい、袋が爆ぜる音が響いた。弾かれたように中年女は首をグルリと巡らせ、何か用？　とでもいうように瞠いた目で俺を見ながら、半ばバッグに突っ込んでいたカップ麺をゆっくりと棚に戻し、スッと立ち上がった。俺が無言でいると、女は薄汚れたマスクの下でヒステリックな中国語を叫んだ。娘が飛ぶように現れて、ドウカシマシタカ、と繁華街の街娼みたいに腕を絡ませてくる。俺は関わり合いになるのを避けようと思い、逃げるようにしてガラス棚の方に廻った。娘はまたぞろホセのもとに走ったようで、盛んな話し声が聞こえてくる。ビールを一缶だけとり、カップ麺の棚に戻ってみると、中年女は突っ立ったまま、視線を一度たりとも外していなかったというふうに俺を凝視した。化粧かソースかで赤黒く汚れたマスクが狂気じみていて、俺は直感的な恐怖を感じないではいられなかった。コートを羽織っているとはいえ制服のまま面倒事を起こすのも厭だったから、俺は中年女をやり過ごし、店を出るためにレジに向かった。レジには娘がいて、なぜかエロ雑誌を片手に持ち、レジに肘をついて囁くように喋っていた。ホセはえびす顔でしきりに相槌をうっていて、俺が並んだときには迷惑そうな顔さえ浮かべた。空気読めよ、とその目は狡そうに光っていた。それはいつもの優しいホセのものではなく、いきりたった一介の獣の眼だった。弁当を温めるかどうかを訊かれず、シュークリームの袋が破けていることにすら反応しなかった。傍に立つ酔ったような眼をした支那娘にホセはすっかり夢中だった。

　相方が鼠色のモップを床に辷らせているのを見て、やはり我が家に帰ったかのような安堵を感じた。だいぶ、休憩が潰れてしまった。冷えた飯を温めるのも懶く、無感情に平らげた。食ったら、睡気が来た。丸めたコートを枕代わりにして、狭い事務机に突っ伏して少し眠ることにした。二十分ほどして、相方の慌ただしい声に起こされた。警察が来てるんだよ、ちょっと聞きたいことがあるって。首だけ伸ばすと、ドアの前に二人の警官が立っているのが見えた。パトランプの赤い光が、先ほど相方が寝ていた厨房の隅まで届いて明滅していた。小説の中の居丈高な警官とは違い、二人とも慇懃に頭を下げ、すみませんねェ、お休みのところを、と詫びてきた。俺は、いえ、と手を振りながら、ホセの助平ったらしいえびす顔と、アシカを詰め込めそうなバッグを憶い出して苦笑した。棚の一角が丸ごと消失しているのを発見して、ホセはどんな顔をしたろう。笑いがこみ上げるのを抑えられない。年嵩の警官が、ふと厳しい顔をして、何が可笑しいんです？　と言った。相方ももう一人の若い警官も訝しげに俺を見た。あァ、いや、さっき買いに行ったんですよ、そのコンビニ、と俺は弁解するように言った。コンビニ？　警官は眉を顰め、互いにさっと目線を交わした。不穏に思った俺は、事件でもあったんですか、と年嵩の警官に訊いた。警官は外を指差して、あそこの神社でね、いましがたヤク売ってた奴がいたんですよ、この辺りのホテル転々として、まァ外人の客も多いからね、うまいこと捌いてたわけだ。若い警官が俺から目を離さず頷いた。それでね、怪しい奴が来なかったかなと思って、協力者がいるらしいんだな、誰か、見なかったですか？　相方は大袈裟に首をひねってみせる。いやァ、怪しいっていえば、そんな客ばかりですからねェ、極道者も珍しくないんで。警官は、そうですか、と言って、また視線を見交わした。実はね、この辺で、違法売春なんかも横行してるらしいんだ。若い警官ははっきりと俺に向かって言った。で、事が終わってからさ、薬の件を持ち出して、売春をサービスするから、代わりにこれを買ってくれって言うらしんだな、お兄さん若いんだし、気をつけてくださいよ。相方は肩を揺すりながら哄笑し、そうだそうだ、タダより高いものはないんだからねェ、と喚いた。年嵩の警官もつられて笑い、ところで、と咳払いを一つして、他の誰でもない俺だけに慇懃ながら鋭い眼光を向けて言った。お兄さんさ、ちょっと荷物のなかだけ、あらためさせてもらってもいいですかねェ？……

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