黒い感覚


 小便の色が薄い。やはり宿酔だろうか。ビタミン剤を飲み忘れたせいもある。狭い便所だ。尻を壁にもたせながら、長い放尿を待つ。軀が熱くなったり冷たくなったりする。スウェットを着たり脱いだりと、まだ脳が酔っているのかもしれない。もう一眠りすれば怠さも消えそうなのだが、もはや目を閉じる気にはならない。カーテンを閉ざした薄暗い虚室に戻る。昼の二時だ。壁にかかった丸時計の横にフランシスベーコンの複製画が無造作に貼ってある。頭部の欠けたスーツ姿の男が絶叫している奇怪な絵だ。男は床屋の椅子にも処刑に用いる電気椅子にも見える椅子に縛りつけられている。女が窓を開けていったのか、どこからか冷たい空気が流れてくるような気がする。それに鉄工所が旋盤を動かす音や廃品収集車が拡声器で垂れ流す声が、鼓膜を介さず脳髄に直に染み込んでくるみたいだ。薄い布団をかけたソファに転がって天井を見上げた。

 数年ぶりに、あれが夢に現れたのだった。俺の見る夢はたいていが悪夢だが、気分の悪いときには殊更に厭なものを見る。たぶん幼少期に映画か何かで見た外国の街、それもウォール街のような寒々とした白壁のビルが整然と並ぶ街で、俺はひたすらに逃げているのだ。あれはモリモリと沸く蛇花火に似ている。タンクローリーほどの大蛇で、顔も尾もなく津波みたいに総てを呑み込みながら追ってくる。質感はコールタールやヘドロそっくりで、地鳴りのような音を響かせている。その執拗さは尋常でない。最期には必ず俺は捉えられ、そして喘ぐようにして目が醒める。起きると妙な感覚に襲われる。時計の針音が異様に遅く聞こえ、風景がスローモーションに見えるのだ。逆に思考だけはビデオのコマ送りみたいに鋭敏に働いた。奇妙な時間感覚の齟齬、躰と精神にズレが生じる厭な感覚、めまいと嘔気、醒めやらぬ悪夢の続きを見ているようだ。……

 きょうも、やはり俺は街を逃げ惑っていた。三十歳になろうという大人が、不安と恐怖にまみれながら疾走する。駅の地下街、迷路のようなビルの廊下、臭いたてる下水道、奴はどこまででも追ってくる。俺は路ゆく人々を突きとばし、時には襟を掴んで引き倒し犠牲にして逃げた。女子供も老人も関係なかった。あの利己心が俺の本性だろうか。喩えば現実で通り魔に遭遇したとして、俺は買い物帰りの主婦の小さな背に匿れるだろうか。前途ある少年を差しだして脱兎の如く逃げだすだろうか。俺は認めぬ。だが勇敢な者は、夢の中だろうが勇敢に振舞うはずではないか? 夢の中の俺は鼠だった。ゴキブリだった。いっそ、蠅のように翅が生えていたなら逃げようもあるのだが……。だが、実際には無力な蛆だ。夢の中ではうまく走れない、手脚が錆びた機械人形みたく動かない。なぜだ、なぜ走れない? こればかりはフロイトにも解決できぬ。夢の世界で人間が走るなど、水中、いやきっと宇宙空間で走るのと同じなのだ。無謀だ。逃げられない。地鳴りがすぐそこまで来ている。俺は恐怖心から振り返れない。だがどうしてか俺自身を含めた全容が俺には見えている。黒々とした巨大な濁流がいまにも総てを吞み込もうとしている。その瞬間、音が消える。途轍もない重い何かに押し潰される感覚がある。グエッ、と俺は現実でもヒキガエルの末期の声を漏らしているだろう。暗黒の帳がおりる。星のない宇宙空間だ。最期に俺はあらん限り叫ぶ。ベーコンの絵に描かれた男のように、黒い夢の終焉で声のない叫喚にむせぶ。……


#小説 #文学 #日記 #退廃 #日常

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