”何か”
あれKちゃん、どうしたのそれ、ちょっと、性病じゃないよね? 夜勤の相方の倉科が嬉しそうに覗きこんでくる。また無意識に中指を掻いていた。すげえ痒いんすよ、ダニに喰われたみたいに。俺は指を突き出して見せた。調べてみると、汗疱というものらしかった。第一関節から先が赤く、蜂に刺されたように腫れている。無数の水疱が指の脇にプツプツとでき、掻くたびに潰れ無色透明の膿が滲んでくる。荒れたように皮もささくれだっている。洗い物がまたいけないらしいのだ。粘つくような安い絆創膏を巻いてはいるのだが、湯を張った桶に溜めた、肉体労働者たちの食器や箸についた唾液は何をしても皮膚に纏いついてくる。洗剤も粗悪品だった。ステロイドと抗生物質を混ぜた軟膏を塗りつけると痒みは収まるのだが、何しろ夜勤になるたびに菌まみれなのだから治りようがない。
この確たる治療法が見つかっていないという汗疱や”何か”が、指先を蝕むだけでは飽きたらず、全身を覆い、ついに顔を冒し始めたらどうなるだろうと想像した。エレファントマンは飲食店には向かない。職を失い、女との縁が潰え、友も家族も同情心から、それは彼らが冷酷なのでなく俺の自尊心の高さゆえにだろうが、疎遠になるに違いない。誰もが時々夢想する、完全な孤独が手に入るわけだ。だが俺は決して、朝起きると虫になっていた男のように虚室で朽ち果てるような真似はしまい。とにかく夜も朝もなく街に繰りだしてゆくだろう。路ゆく会社員や女子高生から嫌悪と憐憫の目で見られながら路地を彷徨うのはどんな心もちか。犬には吠えられ、浮浪者にすら嗤われる。いつか雨の降りしきる夜に駅前に転がっていた、左脚が象皮病のように膨れあがり、鼠の腐乱死体そっくりの腐臭を放っていたあの男とだけは無二の友になれるかもしれない。奴が地下で祭りあげられていることを俺はのちに知った。ともすれば俺とて地下社会では著名になれるやもしれぬ。不具者のヒーロー、地下生活者の尊師として。その”何か”はいつ何時襲いかかってくるかわからない。高校のころ、空の廃油缶に雨水が溜まっているのに気づかず、そこに熱した油を棄ててしまい、反発がおきて顔面に油をかぶってしまった男を眼前に見た。男はすぐに冷水を浴びた。油が凝固したのか皮膚が溶けたのか、男ぶりの好かった顔はまるで崩れかけの蝋人形だった。日曜日の朝六時のできごとだった。この手の不条理は枚挙に遑がない。偏執狂のファンに顔面を刃物で切り裂かれたアイドル、愛でていた飼犬に鼻を喰い千切られた少女、バイク事故で顎が砕け尻の皮膚を移植したモデルの男、彼の上腕には象牙のような歯が未だ埋まっているという。……
今のところまだ顔の皮膚はなめらかだ。だが、右太腿の裏、左の脹脛のつけ根、右上腕三頭の下部には、痒みを伴う染みのような”何か”がある。それは冬の乾燥期になると赤みを帯びる、しかも年々拡がっているようなのだ。今年の夏には左腋に、ダニに喰われたような湿疹が突然ボツボツとあらわれた。やがて赤みが抜けたが、これもまた茶褐色の染みとして残ってしまっている。”何か”が、病魔のように俺の皮膚を蝕み始めているのは確かだ。傷はもはや治らぬ。あとひと月で三十だが、やはりこの頃は、得体の知れない”何か”が水面下で俺を冒しているのをひしひしと感じる。緩慢な匍匐をやめて、突如としてその”何か”が襲いかかってくる覚悟はしておいて損はないだろう。バニラ色には程遠い、地獄の天井のように赤黒い空の下を永遠に独り流浪する覚悟を。……
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