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窓を、開け放して

5/3(水)晴れのち小雨

自立支援ホームでの日々を記録しようと思う。

上司の名取さんと挨拶をし、書類の記入を教わる。名取さんは、サラッとしたボブヘアにメガネをかけていて、美術や国語の教師のような雰囲気を漂わせている。

昨日からひとりの子(サエさん)が熱を出しているのだそう。何か食べたいとメッセージ。味噌味のおじやを作る。食事を摂りに下りてきたサエさんは、「こんなにキツいのに。死ね」と名取さんに暴言を吐いた。

昔、読んだ小説のセリフを思い出す。「感情的な姿を見せられるのは『家族』になったってことだよ」。「ああ、もう名取さんはサエさんの家族なんだ」。こうして時に境界を飛び越え行き来のできる気楽さが、「家族」の良さでもあり同時に辛さでもある。

リビングにいたユメさんは、よくしゃべる。大きな瞳にぽってりした唇、ぱっつん前髪に毛量の多いセミロングの髪。最近、近くの焼鳥屋でアルバイトをはじめたらしい。お昼の塩焼きそばを食べて「ごちそうさま」「美味しかった」と言ってくれた。

午後、サエさんは名取さんとゼリーを買いにコンビニへ出かける。

ナナミさんは、ソバカスがあるぽっちゃりした女の子。ざっくりと編まれたニットのカーディガンを着ていた。私物を共有スペースに置きっぱなしにするため、周りとトラブルが起きやすい。今日も私物そのままに外泊したので、名取さんが頭を悩ませていた。

早めに夕飯を作る。作ってラップをしておけば、各自チンして食べるとのこと。生姜焼き、豆腐のきのこあん、ポテトサラダ、みそ汁。出来立てのあたたかい食事をいつか食べてもらいたい。

ここではあまり挨拶をしない。できるだけ「おはよう」「いってらっしゃい」と言えたらと思う。ホームの建物自体は大きいのだが、暗く静かで空気のこもった雰囲気だった。

5/4(木)雨

朝、車を駐車しているとホームから女の子(エリカさん)が出ていった。今日から外泊をするらしい。

同じ時期に入社した葉山さんと新人二人で、前日の日報や子どもたちの薬のチェックをする。掃除のため上がったホームの2階のドアや壁には、数カ所穴が空いていた。行き場のない何かがその穴に収まりきらず詰まっている。

びっしり埃が積もった棚を拭く。気づかないうちにこうして積み重なる埃が、彼女たちの心の傷と重なって見えた。いや、彼女たちを翻弄した出来事は、埃より明白でショッキングなものだっただろう。それは、壁に開いた穴と同じ、不可逆なもの。こうして掃除シートで拭って終わりではないけれど、(埃を丁寧に拭きとりながら)彼女たちの心がいつかこうなればと、ちいさく願いを込めた。

掃除の時にヒナさんと会った。電気を消した薄暗いリビングで鉢合わせたため、ひどく驚かせてしまった。いがぐりかウニのような頭、驚いてまん丸になった目、小柄な背丈だけど体つきがしっかりとしている。髪型も相まってスポーツが得意そうに見えた。

壁の穴はヒナさんが開けたものだ。坊主頭も自棄になり剃ったらしい。ふと、彼女は芸術家に向いているのかもしれないと考える。ルールを破るエネルギーも、鬱屈とした不満の解放も、どちらも芸術家には不可欠だから。坊主頭も壁の穴も、立派な芸術作品に見えてならなかった。そのエネルギーをアートに昇華すれば、いつか唯一無二の作品ができる気がした。

サエさんは、まだ熱が下がらないらしい。今日はおかかの塩粥を作った。

ユメさんは、「バイト先の男の先輩が優しい」と参っているように話すが、とても嬉しそうだった。

久我さんという先輩スタッフが出社。大柄な体型にブリーチが毛先に残るロングヘア。今日は雨。髪の毛が濡れていた。この会社は有事以外はのんびりとしている。お昼はフィッシュフライサンドとスープ。久我さんが誰より「美味しい」「美味しい」と言いながら食べてくれた。

午後は日報や記録をつけ、夜ご飯を作った。鶏のみぞれ煮、味噌汁、キャベツとちくわのマヨサラダ、きゅうりの酢の物。

食事はコミュニケーションの機会にもなれば、手軽に季節や社会を感じられる素晴らしいツールだと思う。今後、旬の料理や、いろいろな国・地域の食事を作って食べさせてみたい。変わりばえのない食卓じゃなく、すこしはわたしたちが生きるこの社会・世界・季節が感じられて、生活の楽しさが増えればなと思う。

ホームは相変わらず暗い。今日は打ちつける雨のせいで一層鬱々とした雰囲気になっていた。こんなところじゃ生きてるのか死んでるのか、晴れてるのか曇ってるのか、楽しいのかつまらないのか何も分からなくなりそうだ。海の匂い、緑の色の移り変わり、食材の変化、木々の香り、日差しの眩しさ、影の濃さ、いろいろな刺激を楽しく感じてほしいと思う。暗さと明るさを行ったり来たりしながら。

5/7(日)大雨

数日前から断続的な大雨がつづく本日、3日ぶりの出社。今日から白のズボンに白のトップスで出勤しようと決めた。

これは薄暗いホームでも「ここにいる」と分かるため。誰の肩も持たず、受け入れる意思表示。あなたたちを傷つける意図はないという無実の白。誰も気づきはしないだろうけど、それでいい自分だけの約束事。

ホームにはすでに葉山さんがいた。今日も爽やかなシャツを着ている。

3日前は穏やかな雰囲気だったが、今日はどこか違和感がある。出勤処理を済ませ、日報をチェックしていると、「いいですか」と、只ならぬ雰囲気でホームのスマホを渡された。「朝見たらこれが来ていたんです」。画面には「やっぱり死にたい」「誰も信じてくれない」とメッセージ。送信者はサエさんだった。送信時間は深夜0時40分。葉山さんは、このメッセージにひどく動揺していた。

ひとまず「朝の気分はどう?話聞くよ」と送る。その間も葉山さんは不安を口にし、落ち着かないようだった。

今日はお昼ごはんと夜ごはんに加え、翌日のお弁当を作る。

お昼は簡単にそばメシを作った。葉山さんが「うま。料理上手」ともらしながら食べてくれた。食事の時間は、膠着した気持ちが多少ほぐれたようだ。

翌日用のお弁当は、からあげ、卵焼き、ちくわの磯辺揚げ、野菜炒め、キンピラ。卵焼きは半分に切ってハート型にくっつけた。劇的な一言より、食事を通して、さりげなく穏やかな愛情を何度も送りたい。

初日から気になっていた玄関先の小さな小さなセロームに水やりをする。想像力が盛んで、目に入るものに自分を投影し落ち込んでばかりだったあの頃を思い出す。「この植物が世話されないならわたしも…」、「こんなに散らかってるならわたしも…」と。水を飲み込んだ土を見ながら、こうして目に入る景色をすこしずつ整えることが、何かや何かや何か(それは命かもしれない)を大切に思える未来につながる気がしている。彼女たちがこんなちいさな変化に気づくかはわからないけれど、それでいい。これも未来へのささやかな約束事。

サエさんは、ホームのLINEと何度かメッセージのやり取りをしたあと、14時半ごろノソノソとリビングに現れた。「おはよう」と声をかけると目があった。リビングの椅子を二つ使って寝っころがり、顔を覆い隠している。塞ぎ込んだ彼女に「お弁当のあまりをつまむ?」と聞くとこっくり頷いた。つぶらで意思の強い瞳が、今日はひときわ子どもらしく見えた。

夕飯を作るキッチンの横で葉山さんが、少しずつ食事を口に運ぶサエさんに「ご飯おいしいよね」と話している。たとえば何かがあった日も、ご飯が彼女たちをこのリビングまできちんと連れて来てほしい。願わくば。そんな思いで食事を作る。

今日の夕飯はハンバーグ。冷凍庫の隅から発掘した牛コマと、冷蔵庫の常連の豚コマを包丁で叩いて、合挽ミンチにした。副菜はマカロニサラダ、グリーンサラダ、卵とレタスのスープ。夕食の予約はユメさんひとりだけ。できあがったハンバーグをテーブルにコトっと置くと、横目に「うわ、おいしそ」とサエさん。ハンバーグが好物だと言う。ちょうど冷蔵庫に叩いたミンチが余っているので、あとは葉山さんに作ってもらうよう頼む。「降りてこれてよかったね」と微笑みかけると、彼女の口角もすこしななめ上を向いた。

死にたくなった日の夜ごはんに、たまたま大好きなハンバーグが出てきた。それは、とても"人生"らしい出来事だった。サエさんは、この24時間をどう要約するだろうか。「死にたい日」か「好物を食べた日」か、はたまた「ーーーーー」。三番目の未発見な言葉と感覚が、荒れ狂う感情からいまを取り戻すための大きな浮き輪になるかもしれない。

5/11(木)晴れ

出勤すると名取さんと三科さんがすでに忙しそうにしていた。三科さんは赤のインナーカラーが入ったワンレンセミロングで、瞳のふちにソバカスが見えた。

出勤処理と記録チェックをしている間、ふたりは何かを話し合いながら慌てたり、ため息をついたりしている。ヒナさんが今日退去になるらしい。お昼前には児童相談所から担当者がやって来る予定だ。そして、ヒナさんは今日退去になることをまだ知らない。

突然の決定だったようで、名取さんも三科さんも実務処理に追われながら、ヒナさんの心情を思いあぐねている。

児童相談所の方が来る前に、掃除を済ませる。三科さんが、リビングのカーテンをシャッと開けた。大雨が止み、二、三日前からいい天気が続いている。窓を開けると、心地よい春風が室内に吹き込んだ。「ここって何か暗いでしょ」と三科さん。掃除の間、トイレや洗面所、2階の廊下の窓を開けた。風を大きく吸い込んだこの家が、すこし生き返って笑っている気がした。

お昼前、児童相談所の担当者2名が訪問。リビングで話した後、ヒナさんの部屋へ。わたしは薬の補充や掃除を済ませる。ガチャっと玄関ドアが開いた。ヒナさんに持たせるおにぎりを取りに戻った名取さんだ。「ヒナさん、出発しますか」。名取さんはこっくり頷く。

お見送りに出ると、いがぐり頭にタオルを巻いたヒナさんと目が合った。「お疲れさまです」。ヒナさんの落ち着き払った成熟な一言にたじろぎ、動揺を隠すように微笑みながら「ありがとうございます」と返すしかできなかった。

タクシーにヒナさんと担当者が一名乗り込む。運転手は、不自然なほど言葉のないこの別れを気にも止めずアクセルを踏んだ。リアガラス越しに俯き加減のヒナさんがこちらに会釈をした。車が小さくなる。三科さんが隠れて、悔しそうに泣いていた。

「ヒナさんの言葉、ぐうの音も出ない正論でしたね」。残ったもうひとりの児童相談所の方がそう漏らした。この人も悔しがっている。

「そうするしかなかった」という言葉で、大人は自分の思いを落ち着かせる。そして、その単純明快な一言を聞かせたくないから黙ったままでいることがある。それが、ずるくて、すこし優しい大人の人間で、わたしも気づけばそんな大人になった。もうすこし、ヒナさんのことを知りたかった。きっと仲良くなれただろうに。

お昼過ぎ、3人で遅い昼食を取る。「訪問前にパパッと作った」という名取さんのパスタ。時間が経ち麺が固くなっていたが、おいしい。

夕食を作っていると、別の児童相談所の方が訪問。エリカさんの情報共有のため訪れたようだった。挨拶を交わし、洗い物や片付けを済ませる。食卓に、チキンのトマト煮、ほうれん草のバターソテー、パスタサラダ、キャベツのスープを、ヒナさん以外の4人分並べラップをかけた。

今日の出来事は、リビングに吹き込む春風駘蕩とした風やぽかぽかとした日差しと全く正反対だった。淡然として発った鈴さんの中には、きっと自己存在に向けた熱い執心と献身がある。いつか彼女の心に、今日の風のような心地よい関心と愛情が吹き込むことを願う。いつかいつか、すこしずつ回復した鈴さんと、どこかの公園ですれ違いざまににっこりと笑い合いたい。

5/12(金)曇り

9時に出勤。PCを立ち上げ出勤処理を済ませ、記録と指示を確認する。

リビングでは、暖房がつきっぱなしになっていた。ここ数日、朝晩はたしかに寒い。リモコンを止め、カーテンを開ける。隣の建物に移動し、同様にリビングのカーテンを開けた。どちらの建物も、カビと汚物と人の臭いがこもっていて、ツーンと鼻をつく。建物の行き来で外に出る時、自然と深呼吸をしていた。

ドンドンと階段を降りる音。ユメさんだ。「おはよう」と挨拶を交わす。ユメさんは、今日も携帯の画面を見て楽しそうにひとり喋っている。

11時前、久我さんが出勤し、わたしは昼食作りへ。冷蔵庫にはお弁当用に味がついた鶏胸肉があった。今日は三色丼にしよう。鶏肉を包丁で叩き、ミンチにした。鶏そぼろと卵そぼろ、緑はきゅうりにした。スープは厚揚げの味噌汁。ユメさん、久我さん、わたしの3人で食卓につく。

食後、スタッフルームで久我さんとどこにでもある職場のよもやま話をし、またキッチンへ。昨日名取さんが買ってきてくれた合挽肉を使ってビビンバを作った。糸こんにゃくと厚揚げ、ちくわでチャプチェ風炒めもの、海鮮チヂミ、ワカメスープの献立にした。人の手料理は食べられないと話していたナナミさんが、最近、食事申告用ホワイトボードに自分のマグネットを貼っている。夕食を気に入って食べてくれていたら嬉しい。

引き継ぎを終えて、帰宅。午後から天気はぐずつき、空気は水分をたくさん含んでいる。雨が近づいているようで頭が痛い。特別なことは何もなかった今日の一日だ。

5/15(月)晴れ

出勤し、名取さんと挨拶を交わす。エリカさんからLINEがあり、登校途中で気分が悪くなったので帰宅しているところだという。一階でドライヤーを使う音。ナナミさんだ。ナナミさんも体調が優れず登校できていなかった。

窓を開けて換気をしながら、名取さんと建物内を掃除する。今日は玄関のドアも開け放ってみた。心地よい風が、これまでにない圧倒的な密度で室内を駆け回り、笑いながら通り抜けた。家とわたし、そろって外の空気をしっかり胸いっぱい吸い込んだ。

ああ、これは人とのかかわりとまるで似ている。外の世界と人の奥はしっかり繋がっていて、日々の何気ない仕草や動作が知らず知らずのうちに心を方向づけている。ひとつ窓を開け、もうひとつ開ける。そしてまた、もうひとつ開ける。こうしていとも簡単にあちらとこちらを行き来する。それがどんなに難しいかを理解もしながら。人とのかかわりの中で、彼女たちが臆せず自由に窓を開けられる日がいつか必ず来る。その日はきっと晴れた爽やかな風が心いっぱい吹くはずだ。

エリカさんが帰宅。やっと「はじめまして」の挨拶ができた。深い二重にハネあげたアイライン、唇はぷっくりとCカールをえがき、口角が不満あり気な頬に埋もれていた。まるでK-POPアイドルのような顔立ちだ。

今日のお昼は、職員の分だけだったので、袋麺の焼きそばを作った。お弁当は、ウインナー、えのきのベーコン巻き、ちくきゅう、にんじんしりしり、ほうれん草の胡麻和え、卵焼き、こんにゃくのきんぴら。夜ごはんは酢豚、コーン中華スープ、冷奴、切り干し大根のサラダ。施設にはないと思っていたフードプロセッサーを見つけた。これから料理の幅が広がりそうだ。

5/20(土)晴れ

緑が目に眩しい。数日ぶりの太陽は、雲を従えず孤高を持している。

体調不良が続くサエさんは、結局扁桃炎だった。ウイルスだか細菌だかの仕業で、しばらく通院するのだと言う。通院のため、サエさんがのそのそとリビングに降りてきた。「おはよう」と声をかけると、こちらに一瞥をくれた。リビングの椅子にどかっと座り、何かを握った手を広げながらこちらに向ける。手のひらにはざっと10錠はありそうな薬。「飲むのがキツい」と嘆いたかと思えば、ごっくりと一口で飲み込んだ。流れるような手順は、あまりに無駄がなくスマートで、見逃しそうなほど一瞬だった。

10時ごろ、バイトに行きたくないと言うユメさんの背中をポンっと叩き、「頑張ってね」と送り出す。外泊していたエリカさんが帰宅。今日はメイクをしておらず、先日よりいくつも幼く見える表情で「ただいま帰りました」と呟く。

お昼ごはんはカニカマとシラスのパスタ、ポトフ。食事を終えてしばらくした頃、エリカさんが降りてきた。「いただきます」という声が、静かな部屋に響いた。食事の後は「ごちそうさまでした、美味しかったです」と、とても礼儀正しい。

13時半過ぎ、ユメさんのアルバイト先から電話。体調不良のため迎えに来てほしいとのこと。電話を切った名取さんが慌ててホームを出た。リビングにいたエリカさんが、ぽつり「やっぱりユメ、朝、顔色悪かったもん」とこぼす。わたしは気づかなかったそのちいさな変化を、エリカさんは感じとっていた。名取さんの車でホームに戻ったユメさんは、リビングにいた。「お腹すいた!」と冷凍ご飯をチンしている。「気づかず朝は『頑張って』なんて言ってごめんね」と謝ると「いや!全然っすよ」とどこ吹く風の元気さだ。

晩御飯はチキン南蛮、焼き厚揚げのきのこあん、春雨サラダ、玉ねぎとわかめの味噌汁。ほとんど手伝えなかったが、今日はスタッフルームの引っ越しもあった。ふたつ続きの建物の玄関を両方開け放ち、荷物の出し入れを行った。いつもの何倍も風が通り抜ける、今日のホーム。

外と中だけでない、こんなに清々しく曖昧な空間をすこしずつ増やしていきたい。内と外という極端な二面の境界を飛び越え、曖昧なこの時間と空間が連続性を持たせるように。そして、この命で生きる多面的な自分がしっかりひとつに縫いつけられるように。大胆に開け放たれた玄関の扉が、心の中と外をつないでいるように見えた。

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