2-III. 石橋の建設等に関する評価
石工集団と架設技術について その2
石橋に関する技術については、安政2年(1855)仙林寺の花田恵燈が日田の広瀬淡窓が開いた 私塾である咸宜園に入門し、アーチ型石橋の普請をはじめ公益事業を数多く手掛けた豪商である広瀬淡窓の弟の広瀬久兵衛との交わりや先進的な肥後の石工や土木技術者達と接することにより学ぶ機会があったと推察される。特に、広瀬久兵衛が携わった日田の川原隧道(1854年)は、 柱状の石材をハの字形に組む構造を有しており、掛橋の石橋と時期的にも技術的にも近く、リ ブアーチ型の参考にした可能性は高い。また、恵燈を通して地元の石工集団は、花崗岩による ブロック型石橋の施工は多額の費用と加工が困難であることや非常に困難を極めた施工や多額の費用を要した秋月眼鏡橋の事例が伝えられたと思われる。このことから、文久2年(1862)に 官費で架設された石橋は、地元の石工により花崗岩に適した工法で架設されたリブアーチ型石橋の可能性が示唆される。また、掛橋の石橋のリブアーチ部材の表面にはノミ等の調整痕はなく、ほぼ未加工で使用されており、構造的にみても部材の接点部や幅方向の橋として 仕上がりも、同じ江戸時代末期のブロック型石橋と比較しても石橋の架設技術の点からは決して高いとは言えないが、独自技術の点で非常に価値がある。また、現在、確認されている福岡県内のアーチ型石橋62例のうち、39例が八女地域に集中するが、いずれもブロックアーチ型の石橋である。八女周辺には、加工に適した阿蘇石(凝灰岩)が豊富に分布し、近代になると多くの石橋が架橋されたことが分かっているが、花崗岩を用いたブロック型石橋は、明治19年 (1886)の仲哀隧道の開通計画で架設された呉川眼鏡橋の事例があるのみで非常に少ない。
以上の状況や実施事例を考慮すると、地元で産出され、大きい強度を有する石材である花崗岩に着目し、地元の石工がブロック型石橋の弱点を考慮し、架設位置の川の状況、今までに習 得した土木技術等を参考にして、地元石工集団がこの地区独自のリブアーチ形式を考案し架設したと推測することは可能である。また、後述するように櫨蝋生産に関する物資の安定的な輸送のための石橋架設の要望もあったとも考えられる。このような背景もあり、他に類を見ない、 桑野地区独特なリブアーチ型石橋を生み出した可能性は非常に高いと思われる。
つづく
熊本大学名誉教授 山尾 敏孝氏レポートより抜粋
※現在この橋は見学できません。