3‐Ⅰ. 石橋の産業への寄与評価
背景
石橋が所在する桑野地区とその周辺は、中世においては英彦山神領としてその庇護のもと発展し、明治時代に至るまで峰入り修行等の際には山伏達が往来する場所であった。「掛橋」の地名由来が雨乞い信仰に関係することも、こうした山伏達の活動が背景にあると推察される。また、江戸時代においては幕府の天領である日田とも地理的に近く、往還を通して日田からの先進的な文物や情報も入手しやすい環境にあったと思われる。江戸時代に作成された『秋月封内図』3)(1832)には、日田・小石原と飯塚方面を結ぶ日田往還とそこから分岐して上臼井村の八反田舟入場へと続く交通路は嘉麻郡内の大動脈として強調して描かれており、桑野村内の日田往還は、基本的に遠賀川左岸を通っていたことが分かる。本図の中には、石橋を含む里道が描かれていないが、本図と野取図帳を合わせて参照すれば、石橋を含む里道は遠賀川を越えて、交通の要となる日田往還に合流していたことが理解できる。
つづく
熊本大学名誉教授 山尾 敏孝氏レポートより抜粋
※現在この橋は見学できません。