![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/172100953/rectangle_large_type_2_d458ad66a84ee11ed2972a426f9656d1.jpeg?width=1200)
地上9cmからの視線 『全身小説家』(原一男)
どのくらいの頻度で更新したものか、と少し悩みまして、ひと月だとちょっと遅い、毎週だと面倒くさい、という完全に感覚的な気分で隔週で更新してみることにしました。そのうち忙しくなったり疲れたり、なにも読まずなにも観ずが続く日々がやってきたりとなって、やがて月イチ、隔月とペースが落ちてきそうな気配がもうすでに漂っておりますけれども。
前回は本で池澤夏樹という人の小説でした。だからというわけではないんですが、今回は映画です。『全身小説家』(原一男)。ここで取り上げる最初の映画がコレというのは、正直なところをいうと狙ってました。いやー、仮にも文学の端くれに辛うじてやっとこさっとこ噛みついているようなコレですから。タイトル、内容ともに不足なしです。不足どころか看板倒れしそうな圧力を感じすらします。コワイー!
内容をざっと紹介しますと、井上光晴という人を対象にしたドキュメンタリー映画です。ドキュメンタリー、昔はかなり嫌われたというか人気のないジャンルでしたけど、ここ近年随分と人気が出てますね、多分NHKの72時間の影響でしょう。わたしも昔は観ていましたが、鈴木おさむとかが年末に出てきて喋っているあたりから観なくなりました。いや、最初から年末出てたのかな? よくわかりませんけれど。あとは今大人気のフジのザ・ノンフィクションとかもときどき。まあしかし72時間の方は最初からそれほど面白い番組ではなかったな、というのがわたしの感想です。まれに面白いのもありましたけれど(新潟のホテルとか)、それは完全に対象が際立ってよかったので面白かっただけです。ドキュメントという構造を考えないままにカメラ回して適当につなぎ合わせただけに過ぎない。最近ではそこに「制作側の面白くなさ」が加味されてますますツマラなくなった印象です。まあ悪口はこれくらいにしておいて。
日本でドキュメント映画の監督といえば第一に出てくるのが原一男でしょう。若い人たちの間だと森達也の方が有名かもしれません。わたしも森達也よく観ます。『FAKE』なんて公開初日にわざわざ映画館まで行って観ました、というのも森達也が本で散々「ドキュメントは金にならない、撮れば撮るほど赤字になる」といっていたからで、これは少しくらい赤字を補填してあげないとな、と思い立ったためです。ところが映画館に行ってみたら驚きの満員御礼、連日大盛況でわたしも大変嬉しかったのですが、どこか腑に落ちない気持ちがあったのを告白しておきます。神さま、わたしは心の汚いブタ野郎です。
また話が逸れました。原一男です。原一男といえば『ゆきゆきて、神軍』。ほかにも『さようならCP』とかいろいろ撮ってて『れいわ一揆』ではのちのコメントで山本太郎率いるれいわ新選組の内側を暴露したりしていました。ある意味、森達也と違って空気を読んだうえで無視したり誘導したりする、面白さのためなら遠慮もクソもなくアレコレ画策する人でして、車谷長吉的にいえば恐ろしいお人です。そんな恐ろしいお人が戦後文学の大物である井上光晴を撮ったとなれば、そりゃ面白いに決まってる。ちなみに井上光晴の娘は井上荒野で、やはり親子そろって文学やったりしてます。
ここまで書いてきて、まだ内容らしい内容に入ってなかったことに気づきました。脱線しすぎ。えー、この映画では井上光晴の最後の四、五年を映しています。その中には「動く」埴谷雄高や「動く」野間宏が出てきます。わたし、生まれて初めて動く雄高と宏を見ました。眼福です。うおー! 雄高が! 宏が動いてる! っつーか喋ってる! この時点で脳内のアドレナリンだかドーパミンだかがドパドパ出てます。そして中盤辺りから若かりしころの瀬戸内寂聴晴美も出てきます。寂聴晴美、光晴とやりとりしてますが二枚も三枚も上手な印象です。光晴も晴美相手ではやられっぱなし。そして癌が見つかり手術を受け(無修正流出モノ、モザイクなし、モロ)、肥大した肝臓が摘出されたりしています。アレを見てわたしも肝肥大の恐ろしさを思い知りました。やっぱりお酒はほどほどにしなきゃならないんでしょうか。でも摘出すればいいなら飲んじゃうかも。
また話がズレはじめてます。原一男という監督は煽る人です。元祖煽り屋です。インターネットなんて影も形もなかったころからやたら煽りに煽りまくって人々を暴走させる厄介な人です。恐ろしいお人です。そして暴走した人を映画に撮るというタイプのドキュメンタリー監督で、神軍平等兵の奥崎謙三先生なんて原一男の被害者というかパートナーというか一心同体というか、俺が死ぬときはお前のカメラのファインダーの中でというか、もうコレたまらんヤツです。多分腐女子とかいう人たちからしたら絶好の獲物だったりするんじゃないでしょうか。適当なこといってますけど。
なのに、今回観てて感じたのは、あまり一男煽ってないな、という印象でした。おそらく煽る必要がなかったんじゃないでしょうか。女装して踊るところとかは煽った感ありましたけれど、それ以外はたいして煽ってないような気がする。煽らなくても勝手に暴走するから煽る必要がなかったのかもしれません。あるいは最初から暴走している(だから埴谷雄高は井上光晴をして“全身小説家”と評した)被写体を見つけてきたのか。
井上光晴は「嘘つきみっちゃん」と呼ばれていたそうです。作家というものはみずからの中に虚構を持ちます。これは私小説家であろうとドキュメンタリー監督であろうと同じです。その虚構を飲み込み、また飲み込まれた井上光晴はすべてを虚構に再構築したといえるのではないでしょうか。そして大事なことですが、虚構とは面白く美しいのです。海浜に民族衣装を着て鉦や太鼓を叩きながら練り歩く遊女の光景は美しい。町田康という人は「空は美しく嘘くさかった。美しく、嘘そのものであった」と書きました。虚構にあった井上光晴はだからこそ面白かったのです、小説も、この映画も。