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地上9cmからの視線 『ノイエ・ハイマート』(池澤夏樹)

 最初は本です。いやー、わたし、長い間活字を読まずにいるとなんでもいいから活字を読みたくなるタイプの人間で、その昔ある小説で「食事中に何か文字を読まないでいると気が済まない。なので彼は醤油のラベルの文字を目で追っていた」といったような一文を見かけたとき、気持ち悪いくらいに納得したのを覚えてます。まあその小説は途中で読むのやめたんですけど。

 この『ノイエ・ハイマート』は池澤夏樹という人の作品です。とても有名な人で、娘は声優をしていて最近本を書いたとか噂で聞きました。勘違いかもしれないけど。そしてこの父娘が何年前かの正月だか大晦日だかにラジオに出ていたのを聞きまして、そのとき娘が勧めていた『ザリガニの鳴くところ』は二年後くらいに映画にもなりました。ちなみに夏樹パパが勧めていたのは面白そうではあったけど覚えてません。プレゼン的には娘の勝ちです。
 さて、わたしもパパ夏樹はこれまでに何冊か読んでます。『スティル・ライフ』とか『楽しい終末』とかいろいろ。ちなみに『キトラ・ボックス』は個人的にはイマイチでした。
 この人を読むとき、毎回思うのが「文学の才能は遺伝する」というワタクシ理論です。ご存じの方も多いでしょうが、パパ夏樹のパパは福永武彦というとても有名な作家です。そして娘(池澤)春奈も本を書いて評判がいいし異様な読書家だしプレゼン的にはパパを超えてる。これはもはや才能の遺伝ではなかろうか、とわたしは思うのです。いやいや、作家の家庭に生まれたなら環境が整っていたからでしょ、という意見もあるとは思いますが、夏樹パパは幼少のころから福永パパとほとんど会ったことはなく、生活もまったく別々だったという話を聞きました。それに親子作家というのは意外なほど多く、今ざっと上げるだけでも「太宰修パパ―津島裕子-石原燃」「幸田露伴パパ―幸田文」「森鴎外パパ―森茉莉」「阿川弘之パパ-阿川佐和子」「田中英光パパ―田中光二」。ほかにも井上ひさしの父親も夭折したものの井上靖と比肩されるほどの文士だったとか。キリがないのでこの辺でやめておきますけれど。

 ちょっと誤解されるとイヤなのでこの辺でエクスキューズを入れておきますが、わたしは自分の貧困と彼ら&彼女らの才能を引き合いに出して「不公平だ」などというつもりはありません。そういうものなのです。わたしは自分の貧困に納得してますし、才能の無さにはしばしば愕然とするものの、そういうものだ、と思っています。ちなみにこの「そういうものだ」をわたしにもたらしてくれたのはカート・ヴォネガットというアメリカ人です。
 今、親ガチャだのなんだのいわれてます。こんな親の元に生まれるんじゃなかった、という不満を別の言い方にしたスラングです。誰しもこの環境に生まれたくて生まれたわけではない。でも生まれてしまった以上、仕方のないことです。結局、そこでやるしかないわけなのですが、これをチャールズ・シュルツというアメリカの漫画家は「配られたカードで勝負するしかない」と表現しました。シュルツの言葉に依ろうとするのであれば親ガチャなんて口にしていいわけがない。そしてこの世の中の歪みを正すためにわたしたちは勝負してゆくのです。たとえ負け続ける運命にあるとしても。

『ノイエ・ハイマート』は難民のお話です。主にラヤンというフリーのジャーナリスト(一応アルジャジーラと契約する)が難民とともに旅をするストーリーと、そのほかの難民(日本人も含む)の話や詩が収められています。
 難民をめぐる環境は日増しに悪化の一途を辿っています。その不条理や差別をここでいうつもりはありません。もうすでに世界中で語られていますから。彼らは望んで難民になったわけではありません。いうなればその峻厳な環境すら「配られたカード」なのです。そしてわたしたちに配られたカードでなにができるのか、なにができないのか、なにをするのか、なにもしないのか。
 わたしは自分に対しては「そういうものだ」で終わらせるテクニックを身に着けました。ですが、自分ではないことに対しては「そういうものだ」で終わらせることはできないのです。
 






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