刷り込まれた記憶
最近、料理に充実感をもつことが増えた。
こだわりが出てきて、鶏肉は酒に浸けてから調理するようになった。臭みを消したり、下味をしっかりつけたいときは、塩コショウやにんにくを入念に揉み込む。
人間の脳も同じだ。
同じ経験を繰り返し、記憶を刷り込むことで、
自分の思考としてしっかり定着する。
昨日、たかだか10分の業務連絡に
私はひどく葛藤し、悩みを膨らませていた。
その疲労感は予想以上のもので、昨日の夜は突然の真夏日も相まってぐったりしていた。
でも、客観的に分析したおかげで成果もあった。
たったの10分にさえ、憂うつや不安を感じるのは理由がある。それは、私にとって、職場の「あの人に連絡する」という条件付きがそうさせていることから分かる。
職場にいる「あの人」。
3年程度の付き合いでしかない。しかも、常に一緒にいたわけでもなく、共有時間は他の同僚に比べると、少ない。
だから、というべきか、「あの人」との思い出は、私を不快にする場面が多すぎる。
「あの人」自体が嫌なわけではない。
話を聞いていると共感する部分はむしろ多い。
きっと「あの人」自身、苦労が多く、大変だよなぁという同情心もある。(この同情は、フラットな目線ではないけれど)
ただ、「あの人」と私が対峙するとき、
私はたいてい悲しくなるか、悔しくなるか、そのあたりで、安心感や喜びを感じることがない。
「そういう人」として刷り込まれているのだ。
そして、その刷り込みによって、
ごく単純な行動も、私にとっては苦痛な、ひどく努力のいることになってしまっている。
この刷り込み、いくつかの経験で、しっかり下味がついてしまっているからしぶとい。
私の思考ベースになっていたりする。
じゃあ、どうしたらいいか。
次は違う下味にするしかない。
出来上がったものは食べてしまって、
新しく作るときは、違うスパイスを揉み込む。
私の行動を変えるほかないわけだ。