柿内正午『プルーストを読む生活」

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柿内正午『プルーストを読む生活』(H.A.B)、読了。

昨年、11月に新潮社版『失われた時を求めて』全7巻読了後、一旦、図書館で借りて読み始めてすぐ、これは購入して読むべき本と直感して慌てて吉祥寺の「百年」から購入して、あえて早く読み終わらないよう通勤の車中でのみ読むと決めて、振り返ると3ヶ月強の読書時間となった。本編読了は、朝の湘南モノレール車中、湘南深沢駅停車中だった。嬉しくなって車窓の風景と本編最終ページをiPhone12miniで撮影したのだが、4人がけに今朝たまたま乗り合わせたぼく以外のお三方は、きっと奇異に感じられたことだろうな、この場でお詫びします、届かないだろうけど。

柿内氏にならい、同時並行して別書も読み続け、この分厚な大冊を一種のペースメーカーにしてきた。保坂和志愛に溢れた一冊で、その点において柿内氏と自分とが共通感覚を有していることは明らかで、なるほど読み進めながら、随所で同感し、膝を叩いていた。「失われた時を求めて』をいよいよ読了しようとする日の感覚はほぼ同じで、奥さんを愛している感じとその表出にもよく似た感覚を持たされた。
柿内氏は、難解さと出会うと、その分からなさを面白がり、分からないまま、活字に溺れ、ウキウキしている。そして、そのことをストレートに日記の一文にしてしまう。読む本の幅の広さは唸らされるばかりで、自分自身の店構えの狭さを反省させられること、しばしばだった。自然科学系は、恥ずかしながらここ20年間くらいご無沙汰である。

同書には、また、しばしば滝口悠生が登場するが、芥川賞直前の「ジミ・ヘンドリクス・エクスペリエンス」以外は一冊も読んだことがないので、保坂和志繋がりのような何かに出会うことを期待して、近いうちに読みたいと思う。

日記、と言えば、和田誠と立川談志とが同い年で、最近、全く偶然に2人の17歳の頃の日記が上梓されている。高田文夫が、その面白さを文藝春秋3月号に寄稿していたことを想起する。

同書には、読みかけ中のリストも記載されていて、この几帳面さは、自分と同等とは言えないな、と思ったことだった。

それにしても、こうした書籍を生み出すプルーストの、いや、『失われた時を求めて』という作品の内包する力量の深さ、深遠さをあらためて実感させられる。新潮社版読了後、すぐ読み始めようという勢いで買い揃えた岩波版を書棚に並べたまま、柿内氏の次は小林信彦と決めていながら、日々、自室に入るたびに、あでやかにフェルメールの絵が描かれた岩波版が納まる化粧箱を眺めやるばかりなのである。こちらを読むのは、もうしばらく先になりそうだ。

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