初めての指定席
小学生のころディズニー映画『青きドナウ』に夢中になった。最初は『ピーターパン』の併映作品として観たようだが、実写映画のどこに魅かれたのだろう。また観たいと親にせがみ、二度、三度と映画館に通った。鉄道員の子の主人公がウィーン少年合唱団に入団し、団員同士の友情が主題となる内容だった。繰り返し観ることでシューベルト、ヨハン・シュトラウスが自然と身近なものとなり、この一本がわたしにとってのクラシック音楽鑑賞への入り口となった。
中学2年の時、大阪万博があり、そこでカラヤン、バーンスタインの来日公演があると知り、歓喜して大阪往きを切望したが聞き入れられることはなかった。父はなぜか大阪万博そのものを認めていなかった。納得できなかったが、中学生では如何ともしがたい。自室に籠って少ないレコードを聴き続け、遠い憧れを膨らませるばかりだった。
そんなある日、父は万博の見返りだったのか、その頃入手が難しいと言われていたN響定期会員券を買い与えてくれた。実家近くにNHK交響楽団の稽古場があり、その縁によるものだったのだろう。
当時、N響のホームは上野の文化会館だった。会員席は、文化会館1階の舞台に向かって右サイドの奥、いま座席表であたるとR10列あたりの2か3だったように思う。それが、わたしにとっての、中学生ながら初めて手にした指定席である。
今は亡き田中千香士氏がコンサートマスターだった。尾高忠明氏がサブの指揮者で開演前に楽譜のセッティングをしていた。名誉指揮者だったサヴァリッシュの棒で聴くことが多かった。バレンボイムの日本での指揮デビューにも立ち会えた。
高校進学後、N響は、ホームを渋谷にできたNHKホールに移した。それに伴い、会員席が上野文化会館の席に則した形で新たに割り振られた。当時壮麗さが話題にもなったパイプオルガンの真下の席がわたしの指定席となった。新築されたNHKホールは横に広く、何を聴いても、それまで身体で覚えたN響の音色とは程遠いものとなってしまった。わたしは、手元に届く会員券を、高校の音楽の先生や、数少ないクラシック音楽好きの同級生に譲るようになり、高校2年の時に父に更新を止めてくれるよう申し出た。記録を見返すと、渋谷に移っても通い続けていればN響を育てたローゼンストック最後の公演に立ち会えたかも知れなかったのにと悔やまれる。しかし、音色の変化への若い感性の拒絶感は大きかった。指定席が異なっていれば、わたしの耳は、もっと成熟していただろうか。
わたしにとってのこれまで最も高額な指定席は、敬慕する吉田秀和が「ひびの入った骨董品」と評した83年NHKホールでのホロビッツ初来日公演である。2階中央の良席を指定された。だが、憧れのピアニストを生で体験することの興奮が大きすぎて、毀誉褒貶、評価交錯する歴史的音色はまるで覚えがない。
指定席との縁ということに思いを巡らすばかりである。 (『東川町 椅子 コレクション5 』令和2年3月26日)
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