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【鎌倉殿通信・第7回】鎌倉殿を支えた13人の宿老たち
皆さんもご存じのとおり、大河ドラマの題名は「鎌倉殿の13人」ですね。今回は、この由来を少し掘り下げてみます。「鎌倉殿」については、連載第一回でご紹介しましたが、ではこの13人にはどのような意味があるのでしょうか?
建久一〇年(1199)1月、源頼朝が急死し、息子・頼家が18歳で鎌倉殿を継承します。その三カ月後の4月12日、若い鎌倉殿を支えるため、宿老13人による合議体制が敷かれました。この体制を「一三人の合議制」といい、ここで選ばれた13人が、「鎌倉殿の13人」の由来になっているのではいかと考えられます。
しかし、「一三人の合議制」については、近年の研究で、その評価が大きく変わっています。
従来は、蹴鞠や狩猟に興じて、失政を重ねる暗君頼家の親裁自ら裁決を下すこと)を否定し、宿老たちの合議で訴訟を取り計らうようにしたものだと解釈されてきました。しかし現在は、頼家の親裁を停止したものではなく、頼家への取り次ぎをこの13人に限るという制度であり、若い頼家の政治を支えるための体制強化であったと考えられるようになっています。
また同年には梶原景時が没落し、翌年には三浦義澄と安達盛長も相次いで亡くなっていることや、合議を行った形跡がないことから、13人が実際に集まって合議をした事実はなかったと考えられています。さらに頼家自身についても、『吾妻鏡』の中で、実態以上に「暗君」として書かれている可能性があり、解釈の再検討が進められています。
さて、13人には北条時政や義時をはじめ、大江広元・三善康信・中原親能・三浦義澄・八田知家・和田義盛・比企能員・安達盛長・足立遠元・梶原景時・二階堂行政など、頼朝以来の宿老たちが選ばれました。
彼らは鎌倉幕府の重臣ですから、全員が武士だというイメージがあるかもしれません。でも実は13人のうち、大江広元・中原親能・三善康信・二階堂行政の4人は、京都から下ってきた下級貴族なのです。多くは文筆に長けた人物で、京都の朝廷で実務を身に付け、高い行政能力を持ち、「文士」と呼ばれています。また彼らの強みは京都とのコネクションです。
鎌倉幕府も武力だけで政権を確立することはできません。組織を整えたり、朝廷との高度な交渉を行ったりする必要があります。そのときに活躍したのが文士たちでした。鎌倉幕府が永く続いていくために、文士は不可欠な存在でした。今後はぜひ、文士たちの活躍にも注目してみてください。
【鎌倉歴史文化交流館学芸員・大澤泉】(広報かまくら令和4年3月1日号)