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【鎌倉殿通信・第13回】『吾妻鏡』のひみつ
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の放送が始まって以降、『吾妻鏡』という名前をよく耳にするようになりました。『吾妻鏡』は鎌倉幕府によって編纂された公式な歴史書で、鎌倉の歴史を知る上で基本となる史料です。治承四年(1180)4月、以仁王の令旨(命令の文書)が源頼朝の元に届くところから始まり、親王将軍宗尊親王が京都に戻るまでの出来事を編年で記しています。編纂時には、京都の貴族の日記や文学作品、各家に伝来した古文書、幕府関係者の日記など、膨大な史料が参照されました。
しかし、残念ながら、編纂された当時の『吾妻鏡』は残っていません。室町時代には散逸していたようで、現存する古い『吾妻鏡』は、一部を断片的に写した室町時代の抄出本や、数年分だけを集めた零本です。現代の私たちが目にする大部の『吾妻鏡』は江戸時代を中心に徳川家康や各大名家が断片を収集し、復元した集成本がもとになっています。
集成本の中でも有名なのが、徳川家に伝わった「北条本」(重要文化財)と通称される『吾妻鏡』です。北条本は、散逸していたものを何者かが42、3冊まで収集し、それを家康が手に入れて更なる収集と復元を行い、51冊にまで増補したものと考えられています。慶長一〇年(1605)に52巻(伏見版)が京都の冨春堂から刊行され、世間で広く読まれることになりました。その後も度々刊行されており、『吾妻鏡』は江戸時代のロングセラー本といえるかもしれません。家康の愛読書でもあったといわれています。
また、家康の他にも『吾妻鏡』を手に入れた大名がいました。島津家や毛利家です。両家に伝わった通称「島津本」「毛利本」は、北条本とは別の収集本をもとに成立したと考えられています。そのため、北条本にはない嘉禄元年(1225)~安貞元年(1227)の記事があり、この部分が後に『東鑑脱漏』として刊行されました。
また最善本とされているのが、吉川家所蔵の「吉川本」です。この本には大永二年(1522)に書かれた奥書があり、集成の経緯がわかります。奥書によれば、大内氏の家臣右田弘詮が文亀年間(1501~04)の初めごろに得た42冊に、手段を尽くして探し求めた散逸分5冊と年譜1冊を加えて写し直したものであることが分かります。北条本や島津本などにはない記述も多く、大変貴重な諸本の一つです。このように、現在の『吾妻鏡』に整うまでに先人の多くの努力があったことがわかります。
これらの大名たちは、いずれも鎌倉時代に活躍した人たちの子孫です。毛利家は大江広元、島津家は頼朝の落胤という伝承をもつ島津忠久の子孫にあたります。江戸時代の大名家は家の由緒を鎌倉時代に求め、武家としての正当性と優位性を示したことでしょう。それを裏付けるのが『吾妻鏡』だったのです。
【鎌倉歴史文化交流館学芸員・大澤泉】(広報かまくら令和4年9月1日号)