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永遠のベンチャー「UUUM」創業物語

UUUMはあくまで「ベンチャー」です

6月27日はUUUMの設立記念日です。

設立が2013年なので丸6年が経ったことになります。

今や社員も400名近く。noteでもちょこちょこ書いてはいますが、会社の歴史を知らない人も増えてきました。研修で社員に「UUUMってどんなイメージ?」と聞いてみると「時価総額ウン億円で」「ヒルズに入ってて、上場企業で、順風満帆で……」といった答えが返ってきます。

……違うから!!

今がたまたまそうなだけで、
めちゃくちゃ苦労したんだからね!!

……というのを伝えたくて、これまでの歴史をnoteにまとめておくことにしました。

言っておきますが、うちは断じて「ベンチャー」です。つい6年前までは原宿の15万のワンルームでした。「やる気はあるけど、金も、仕事もない」。そんなパッとしない日々を送っていました。

そもそもぼくは、親が経営者だったわけでもないし、経営者になろうという考えもまったくありませんでした。約10年サラリーマンをしていて、会社を辞める日が来るなんて考えたこともなかったのです。

それがなぜ経営者をやることになったのか――。

時計の針を少し戻して、物語を始めたいと思います。

19歳から光通信でバリバリ働いていた

ぼくは19歳から「光通信」という会社にいました。

そこで最年少の執行役員にもなりました。若いころから多くの上場企業の社長さんと打ち合わせをさせてもらいました。ソフトバンクの孫正義社長にも会いました。ちょうどソフトバンクがボーダフォンを買収したときですね。「0円携帯」が出てきたときに、出店担当をしていたんです。

最初は総務での入社でした。総務は社宅などの契約をするので「賃貸借契約書」を扱っていました。ソフトバンクが出店攻勢をかけるときに「物件を見極められるヤツが大切だ」ということになって、事務方だったのにいきなり営業にさせられたんです。

「水もの」の出店に飽きる

営業になってから、白い看板のソフトバンクショップをたくさん出店させました。最後の2年くらいはイー・モバイルの出店担当でした。出店した店舗は、1年で量販店の販売台数を超えるくらいでした。

イー・モバイルのときは子会社の社長をやらせてもらったのですが、ずっと出店ばかりやっていました。ただ、やっぱり出店って「水もの」なんです。「戦略的に」というよりは「いい場所が偶然出てきて出す」というケースが多かった。

ぼくもさすがにそれに飽きてきて、また将来のことを考え始めたタイミングでもあり、また上司が辞めることも重なって、結果的にぼくも「辞めたいです」と会社に伝えました。

ちょうど当時、孫泰蔵さんに紹介してもらった会社があったんです。「そこで事業をやりたい」という話をして辞めました。従業員を全員置いていったので非難囂々のなかの退社でした。

会社はうまくいかず、ほぼニートに

というわけで紹介してもらった会社に入ったのですが、結論から言うとぜんぜんうまくいきませんでした。ぼく自身にも、その会社で必要だったスキルが足りていなかった。

そして、ほぼ「ニート」みたいな状態になりました。

紹介された会社の役員をやりながら、さらに自分で会社をつくったのですが、それもうまくいかない。しかも、自分の会社に従業員を3人くらい連れて来ちゃっていたので「さて、どうしよう……」と。本当にお金もありませんでした。自分の会社の預金残高は40万円を切っていました。

社員の給料は払わないといけないし、賞与も払う。「社員旅行だ!」といって、自腹でみんなをシンガポールに連れていったりしていました。まあ、半分くらいは「見栄」ですね。そういう状態がしばらく続いたんです。

……でも、どうにかしなきゃいけない。どうにかビジネスをつくらなきゃいけない。

そこで毎週、同い年の友だちに事業プランを説明して「これどうかな?」「これどうかな?」という壁打ちをずっとやっていました。(ちなみにその友だちは今うちの株主です。)

なかにはいいサービスもあったんです。たとえば「その人に合った情報が勝手に送られてくるサービス」。ミスチルが好きな人には、勝手にミスチルの情報がシャワーのように届く、というものです。まあ、いま考えると「グノシー」なんですが……。

そのとき、友だちがすごくいいことを言ってくれました。「いいサービスだと思うけど、鎌田くんの良さが何もないよね」と。たしかにぼくはエンジニアでもないから、そのサービスをやる意味がなかった。ということで一蹴されたわけです。

時間だけがあって、仕事がない――。

この状態は本当につらかったです。アポが1日1件ということもよくありました。しかも、先方にリスケされると、1日何もやることがないんです。

HIKAKINさんとの出会い

運命が決定づけられたのは、やはりHIKAKINさんとの出会いでしょう。光通信のときの上司がショップを出すというのでそのオープニングパーティーに行ってみると、そこにHIKAKINさんが来ていた。そこで「ユーチューバー」という存在を認識するわけです。

※このあたりの経緯は以前のnoteに詳しく書きました。

ぼくは事業の相談をしていた友だちに「ユーチューバーって人たちがいるんだけど、彼らに関するビジネスってよくない?」と言ったんです。忘れもしない六本木ヒルズの一番下のスタバでした。

すると友だちは「めちゃくちゃいい! なんかわかんないけど、いいよ!」と言ってくれました。「俺、なんか手伝えることない? 出資するよ」とまで言ってくれた。そのときは、すごくうれしかったですね。

そこからは、当時の仲間と一緒にユーチューブを見る毎日になりました。最初のオフィスは、原宿竹下通りのマクドナルドが入っているビルの401号室。ワンルームです。

マクドナルドの隣にはピアスなどを売っている小物屋さんがあって、客の女子高生たちにまみれながらエレベーターに向かうんです。本当に狭い部屋で、来客があったら「みんな、下のマックでメシ食ってきて!」と言って、追い出していました。

原宿のワンルーム。すべては、ここから始まった。

9時か10時くらいに出勤して、アポがないときは19時には仕事を終えます。竹下通りにファミリーマートがあるんですが、従業員に千円渡して安いお酒と2〜3本とアタリメを買ってきてもらい、夜はささやかな晩酌をしたりしていました。

食事はマックか100円ショップのパスタでした。キャンドゥでパスタとソースを買ってきてそれを食べていたんです。500円のメシは高い(笑)。いちおう「今日はミートソースです」とか「今日はバジルです」と、ちゃんと毎日ソースは替わっていました。パスタは炭水化物だから腹にたまるんです。100円ショップってなんでもあってすげえな、と思っていました。

事務所の小さな机の端っこに30インチくらいのモニターを置いて、ユーチューブにつないで「ユーチューブテーマソング」をよく聴いていました。21時くらいになって退社するとき「これ聴いてから帰ろうぜ」と。「ここに出てるヤツらと絶対いつか仕事してえな」と言っていました。いい青春時代ですね、ホントに。

「ユーチューバー」に会いに行く旅

とりあえずぼくは、活躍しているクリエイターをチャンネル登録者数の多い順に当たっていきました。これはHIKAKINさんからのアドバイスです。結果的にこの判断がよかった。これが「下から」当たっていたら、また現状は違ったものになっていたでしょう。

全部自分でアポをとって会いにいきました。今うちに所属してくれているクリエイターのなかには、当時ぼくが送ったメールに返信をくれなかった人もいます(笑)。きっと怪しかったんでしょう。いきなり「一度お話しさせていただきたいです」みたいなメールを送るわけですから。

ここから「ユーチューバーに会いに行く旅」が始まるのです。

ぼくにはクリエイターに会うときの絶対的な「お作法」があります。それは「3時間以上は彼らのユーチューブを必ず見てから会う」ということです。そうしないと失礼だからです。だからぶっちゃけ、会う時点で好きになっている。3時間以上見てるから、勝手に親近感がわいているんです。

もちろん仕事だから「うちに所属してください」と言わなきゃいけないのですが、会うとほとんどが「どうやってこの動画って作ってんすか?」「どういう経歴なんすか?」「いま何やってんすか?」みたいに質問攻めにしていました。

「ABTVnetwork」荻野さんとの出会い

出会ったクリエイターの順番でいうと、HIKAKINさんの次が「ABTVnetwork」というユーチューブチャンネルの荻野さんでした。

メールを送ると返事があったので、西新宿のプロントで話をしました。ぼくも経歴を話して「こういう人間です。怪しい人間じゃないです」と伝えて、1時間くらい雑談。「一緒にやってくれませんか?」と言うと「やりましょう」と言ってくれました。

時代はちょうど「インフルエンサー」という概念が認知されはじめているころでした。ユーチューバーが企業から少しずつお仕事をいただくタイミングだったんです。荻野さんも「ちょうどビジネスのことを考えてました」と言ってくれて、話は進んでいきました。

荻野さんは、自分でユーチューブに出演することはあまりありません。アニメを作って発信しているのですが、その映像の編集技術、制作技術はピカイチです。VFXも使いこなします。映像学校の講師の依頼が来るような方なのです。

ちなみに今、UUUMは宮崎にも拠点をつくって社員を増やしているのですが、そこの研修の講師もやってもらっています。すごく贅沢な研修ですね。

「カズチャンネル」Kazuさんとの出会い

福井に「カズチャンネル」のKazuさんという方がいました。とある水曜日に彼と電話をしたんです。ぼくが「福井ですよね? 会いに行きますよ」と言うと「いや、ぼくが行きますよ」と言って、金曜日に来てくれました。たしか当時、武井壮さんに似てる企画かなにかで「笑っていいとも」のために東京に来ることになっていたんです。それにしてもすげえ行動力だな、と思いました。

忘れもしない新宿アルタ下のルノアール。お互い短パン、ビーサンです。「カズさんて、何歳なんですか?」と聞くと、ぼくと同い年でした。同い年はなかなか出会わなかったので、それがすごくうれしくて。「じゃあ一緒にやりましょう!」「ぜひ!」ということで所属が決まりました。ちなみにKazuさんの結婚式では、ぼくが祝辞を述べさせてもらいました。なんだか不思議なご縁です。

いま考えると、こんな大物のクリエイターさんたちを、よくそんな「一緒にやりましょう」というようなフワッとした一言で口説けたなと思っています……。

「めぐみチャンネル!」とジェットダイスケさん

次にお会いしたのが「めぐみちゃんねる!」のめぐみさん。彼女と会ったのはある駅の近くのスタバでした。テラス席で1時間くらい話をしました。

ぼくがお会いした方たちは、本当にビジネスのことをよくわかっていたし、その上でうまくぼくのことを使っていこうと思ってくれました。だから、どなたもすごく話が早かった。「ぜひ、参加します」と言ってくださることがほとんどでした。逆にいうと、会った人は百発百中だったんです。

それから、ジェットダイスケという大御所中の大御所に、池袋の椿屋珈琲店で会いました。ちなみにジェットさん、本名を愛場大介といいます。「愛場」ってかっけえなと思ったのを覚えています。アイドルみたいで(笑)。

彼はクロックスで来たんです。他のクリエイターに「今度ジェットさんに会うんだよ」と言うと「ジェットさん、いつもクロックスですよ」と言っていたので「あ、ホントにクロックスだ」と思いました。そして、デカかった。緊張しましたね。威圧感がヤバかった(笑)。

ジェットさんをマネジメントしようなんて恐れ多かったので「顧問になってください」と伝えました。「ぼくに業界のことを教えてほしいです」と話をさせてもらったんです。いろいろ無駄話をすると仲よくなって、一緒に池袋の西武のおもちゃ売場でプラレールを見て帰りました。

「ON SALE株式会社」の誕生

こうして会社の初期メンバーが揃いました。

ぼくが当時やりたかったのは「ON SALE」というサービスでした。ユーチューバーがモノを紹介すると売れるはずだと思い、それをビジネスにしようという発想です。ぼくの脳みそには「モノを売る」=「自分たちで売る」という考えしかありませんでした。それは前職のときに「広告宣伝費」というものがなかったからかもしれません。

ぼくが売るモノを持ってきて、ユーチューバーに動画で紹介してもらう。そこでちゃんと売れればビジネスになるだろう。自分たちでオンライン上に「ジャパネットたかた」を作ろうと思ったのです。

ネーミングは「NOW ON SALE」の「ON SALE」にして、ウェブサイトを作りました。そこにユーチューブの動画を埋め込んで、その動画を視聴した人がそこから買ってもらうことで収益にしようとしたのです。

ON SALE株式会社を資本金1000万円で作りました。ぼくが700万円、エンジェル投資家やVCの人3人に100万円ずつ出してもらいました。とにかく試してみたかったんです。

結論から言うと、ビジネスモデルとしては成立しませんでした。どこでマネタイズすればいいのかわからなかったんです。買ってくれる人も直接サイトから買ってしまう。Amazonのリンクをつけただけでは、大したお金にはなりません。

ビックサイトの「販促EXPO」にも出展しました。「ON SALEという新しいサービスです! これからはユーチューバーがモノを売る時代です!」と宣伝しましたが、うまくいきませんでした。ユーチューブのロゴを使っていたので、今だったらグーグルさんに怒られていたかもしれません……。

ぼくのビジネスのやり方は、いろいろやってみて学んでいく感じです。「戦略的にビジネスモデルを構築して」というよりも「まず、やってみる」。そうやって試行錯誤していくんです。

「ON SALE」の失敗

わかったことは「思ったよりもモノが売れない」ということでした。ユーチューバーは、やっぱり影響力は強いんです。だからたとえば無料のアプリだったら数万ダウンロードされる。でも、10万円のカメラは数万個も売れない。効果がなかったわけではないですが「これはビジネスにならないな」と9月末に気づきました。6月27日に会社をつくったので3ヶ月後のことでした。

そのあいだもクリエイターへのお仕事、いわゆるタイアップ案件は少しずつもらってきていました。ただ当時は、企業がなかなかお金をくれませんでした。「いや、ユーチューブって無料でしょ?」と言われてしまう。ぼくは「いえ、ユーチューブは無料なんですけど、ユーチューブで活躍してるクリエイターがいまして……」とひとつひとつ説明をしました。「彼らがプロモーションをするということなので、お金をください」と。企業からは「1回やってみて効果があったら、やるよ」とよく言われていました。

ぼくはクリエイターにタダで仕事をしてもらうのは絶対にイヤです。そこで「じゃあ、わかりました。企業名と商品は使わせてください。クリエイターにはぼくが払うんで」と言っていました。ぼくがクリエイターにお金を払って仕事をしてもらう。効果が出たら企業に「効果出ましたよね? 次はお金をください」というやり方をしていたのです。

いつも営業の帰り、真夏の暑い日にワイシャツとスーツで汗だくになって日比谷の帝国ホテルの前をひとりトボトボ歩きながら「なんで理解してくれないんだろう?」と憤っていました。それから少しずつユーチューバーの破壊力が認知されていったのですが、当時はぜんぜん理解してくれなかった。これが、仕事のない思い出に次ぐ「つらい思い出パート2」です。

結局、3ヶ月で1000万を使いきりました。さて、どうしよう……。

そんななか、ぼくに投資してくれた「ANRI アンリ」という佐俣アンリさんのファンドがありました。そのアンリさんと、ビジネスモデルを一緒に考えてくれた同い年の友だちの2人が口をそろえて言ってくれたのは「方向性がいい」という言葉でした。「動画っていう方向性がいいね」と言ってくれていた。それが自信になって当時のぼくを支えていました。

自分で仕事をとってくるのをやめた

上記のようにぼくは自分で仕事をとってこようとするのですが、なかなかうまくいきませんでした。企業さんが広告費を使うときは、やっぱり大手の代理店を通します。ぼくは代理店の経験もないので、そことのパイプもなかったのです。

一方で、ユーチューバーには代理店さんからの仕事がたくさん来ていました。ユーチューバーはそこに困っていたんです。彼らは企業とのやりとりも大変だし、自分で「いくらです」と値付けもしづらい。

そこで、少しずつそっちをサポートしているうちに「どうも俺が仕事をとってくるよりも、みんながもらう仕事を一緒になって捌くほうが可能性があるんじゃないか」と思い始めました。

瀬戸弘司さんと佐々木あさひさん

会社にはさらに2人が加わります。瀬戸弘司さんと佐々木あさひさんです。

ある日、HIKAKINさんから「ユーチューバーを集めたイベントがあるから来てくれ」と言われて、HIKAKINさんのアシスタントということで参加しました。そこにはいろんなユーチューバーが来ていました。過激なことをやっている人も含めて有象無象いた。そのなかで2人、すごく気になった人がいたのです。

ひとりは瀬戸弘司というユーチューバー。最初の印象は「デカい」でした(笑)。画面を通して感じていた大きさと、実際会うのとではぜんぜん違ったんです。「一度、瀬戸さんともちゃんとお話したいです」と言って、改めて会うことになりました。

後日、ある駅のデニーズの2階で瀬戸さんと話をしました。瀬戸さんは、当時すでに企業とのお仕事をたくさんやっていました。毎回いい実績が出ていて活躍されていたのですが、話が来すぎて困っていると言ってました。そこで「じゃあ、ぼくやりますよ。ON SALEというサービスをやってたんですけど、それはやめてマネージメントやりたいと思ってるんで」と言って、UUUMに参加してもらえることになりました。

もう1人は、佐々木あさひという女性のユーチューバーです。初対面の印象は「こんなキレイな人いるんだ」でした。画面でしか見たことがなかったので、実際に見て感動しました。ユーチューバーというのは不思議な存在で、これだけ影響力があって画面の中にいる人と普通に会えてしまう。その距離感の近さも魅力です。

ちなみにそのイベントは、MCN(マルチチャンネルネットワーク)の説明イベントでした。MCNはグーグルさんから認定されるもので、当時MCNを認定されている海外の会社が3社くらいありました。その会社が日本のクリエイターに所属してもらいたいということで開かれたイベントだったんです。

秋葉原の会場でしたが、ほとんどのユーチューバーはワイワイやっていて話を聞いていませんでした。そんななか、あさひさんは1人真剣にずっと話を聞いていたんです。すごく真剣に聞いていたので、ぼくは思わず「すごいちゃんと聞かれてますね」と話しかけました。そこから「一度お話ししませんか?」となって、結果所属してくれることになりました。(なんかこう書くとナンパみたいですが...…。)

ぼくはクリエイターにお会いすると、経歴を聞くようにしています。

あさひさんは「ダンスがやりたかったから、ポールダンスをやってた」「ネットを知りたかったから、量販店でプロバイダの売り子をしてた」「パソコンの編集を学びたかったから、AVの編集してました」という感じで、とにかくやりたいことを実現するための行動力がすごかったんです。その努力が本当にすごいと思いました。

偏見かもしれませんが、これまで「女性のユーチューバーは育ちにくい」という印象がありました。それは誹謗中傷をネットで直接見れてしまうからです。その環境に耐えられない人が多いんじゃないか、と。そのことをあさひさんに聞いたことがあるのですが「朝起きたら、自分で2ちゃんねるチェックしますね」と言います。どんなハートの持ち主なんだよ! と驚きました。

「UUUM」という社名の由来

2013年の6月27日に「ON SALE」という社名で会社を設立して、10月に「UUUM」に社名変更しました。よく社名の由来を聞かれるのですが、それはこんな経緯です。

ぼくとHIKAKINさんともう1人の社員で「社名を考えよう」ということになりました。「クラウドワークス」を使って公募もしました。「次世代のクリエイターのユートピアだから“ネクストピア”はどうだろう?」とかいろいろな案が出てきたのですが、ぜんぜんピンと来なかったんです。

HIKAKINさんが出した条件は「中性的な名前がいい」「4文字くらいがいい」「.comがとれる名前がいい」でした。「ハードル高いなあ」と思いながらも、決まりかけた社名が「いいね株式会社」。当時「いいね!」が流行っていたからです(笑)。

その後も、ウーンとめちゃめちゃ悩みました。すると、HIKAKINさんだったか、もう一人の社員だったか覚えていないのですが「うーん」と言ったときに「じゃあ、もう、ウームでよくない?」とぼくが言ったんです。

ドメインが取れるか、お名前ドットコムで探したら「UUM」だとぜんぜんとれない。でも、「uuum」で「.jp」が取れることがわかった。「じゃあ、uuumで!」ということで、決まりました。だから実は「UUUM」のスタートは小文字の「uuum」なんです。

ワンルームから「原宿ヒルズ」への移転

社名変更のタイミングで原宿から原宿に移転をしました。最初のマックの上の部屋が15万円。さすがに狭くなってきたので、そこからネスカフェの裏あたりのビルに引っ越したんです。ちなみに物件名は「原宿ヒルズ」。そこが22坪で家賃30万円。「これ、払えんのかな?」と不安でした。

当時はクリエイターを集めたイベントもたくさんやっていました。LINEがまだ活発ではなかったので、クリエイターどうしが連絡する機会があまりなかったんです。

クリエイターはわりとコミュ障みたいな人も多い。瀬戸さんは自分で「明るいひきこもり」と言っていました。だから、ぼくらが「UUUMの会やるよ」と言うと、みんな来てくれて交流する機会になったんです。イベントはやっていてよかったな、と思いました。

通販事業からマネジメント事業へ

いま振り返ると、ビジネスモデルを3ヶ月でピボットしたのはいい判断でした。「ユーチューバーによる通販」から「ユーチューバーのマネジメント業務」へのピボットです。

ただ、うちには誰も「芸能事務所上がり」がいませんでした。つまり、人をマネジメントするということを誰もやったことがなかった。クリエイターには「ぶっちゃけ、うちはぜんぜん完璧じゃない。でも、言ってくれたら2回目は完璧になるように頑張るから教えて。一緒にやろう」と伝えていました。

マネジメントだからといって「上から」ではなくて「一緒にやろう」と言っていたんです。むしろ動画をつくるのはクリエイターだから「ぼくらはどんなお手伝いができますか?」というスタンスでした。

とにかく、なにが正しいのかわからない。クリエイターが風邪をひいたと聞けば、風邪薬とか栄養ドリンクを詰め合わせにして送ったりしていました。「送っときました! 大丈夫ですか?」と言って。

傷害保険のサービスも始めました。クリエイターはどこからが仕事でどこからがプライベートか判断しづらい。たとえば、プールで遊んでいたら、それはプライベートです。でも、動画を回し始めると仕事になります。では、プールで転んでケガをしたら誰が保険を払うのか? そこで「じゃあ、うちが傷害保険かけます」ということにしたんです。今もクリエイターが無限に増え続けていますが、ずっと保険をかけています。

あと、ぼくが通信系の仕事をしていたこともあって、Wi-Fiをタダで貸すサービスもやっていました。

こたつが増えていく生きがい

原宿ヒルズ時代は、こたつを5台レンタルしていました。そのこたつの数を毎年増やしていくことが生きがいでした。5台のあと、いきなり20台以上になって「次どうする?」となってやめちゃったのですが、みんなで鍋をしたりして楽しかったですね。

近くにネスカフェがやっているカフェがあったので、原宿ヒルズが従業員やクリエイターでいっぱいになったら「カフェで仕事してこい」と言っていました。そういえば、当時の原宿ヒルズは靴を脱がしていました。雨の日は部屋がビチョビチョになって大変でした。

本当に何もないときからクリエイターが会社を支えてくれました。この人たちがいたから、今のいろんなクリエイターがいる。あの時代が今の状況につながっているんです。六本木ヒルズのオフィスから入った社員は想像しづらいかもしれないですが、すべてここから始まったのです。

「UUUM」の急成長

ユーチューバーのマネジメント業がうまくいき、会社ができて6ヶ月で黒字になりました。

ふつう3月といえば商戦期です。でも、うちは2月には黒字になっていた。そして4月には、VC(ベンチャーキャピタル)のジャフコから5億円を調達するわけです。

VCからお金をもらうということは、上場を視野に入れなければいけません。契約書には「○年までに上場を目指すこと」と書いてあります。でもぼくは「できなかったらどうしよう」と思って「努力目標に変えてもらっていいですか? これ」と言って、結局「上場に努めること」にしてもらいました(笑)。

5億円調達したときも、とてつもない額ですが、うれしくはなかったです。お金を調達しないでいいならそれに越したことはない。判断はかなり難しかったですね。「なんのために5億円いるの?」と言われても「いや、もらえるんだったらもらいたいしな」と思って「マーケティングです」と答える。なんてありきたりな言葉なんだろう、と(笑)。ただ、お金はあると使えるものなんです。

お金は積極的に使う

ぼくのいくつかの決めごとのなかに「お金は積極的に使う」ということがあります。

お金の価値は、使った人にしか絶対にわかりません。「あ、これは100円の飲み物なんだ」「これは10万円の飲み物なんだ」「クリエイターに100万円渡すとこういうことができる」「会社が1000万円使うとこういうことができる」「1億円だとこうなんだ」と、使うことでわかってくる。

お金なんてただ持っていても仕方ありません。そして人間不思議なもので、懐が温かくなると使えるようになるのです。

ぼくは、どうにかして世の中に会社の存在を知ってほしかったので、ヤフーさんとパートナー契約を結んだり、フィギュアを出したりしました。

いつもクリエイターに会うと「何やりたいですか?」と聞いていたのですが、瀬戸さんから「フィギュア出したい」という話があったことを思い出したんです。そんななかソニーさんが、ちょうどフィギュアのチームが会議でユーチューバーの話をしているといいます。これはドンピシャのタイミングだということで実現しました。

そこからは、HIKAKINさんが「スマスマ」に出たり、テレビCMを作らせてもらったり、グーグルと仕事したり……どんどん成長していきました。そして極めつけが六本木ヒルズへの入居です。

会社をつくって1年2ヶ月後のことでした。

ビジネスをやる以上、上場は当たり前

「なぜ上場するのか?」と聞かれることもあります。それには「ビジネスをやる以上、当たり前だから」と答えています。

上場すると業績を右肩上がりにしなければいけないし、毎年新しいスターが生まれるかもわからない。よって、特に芸能事務所は上場していない会社も多いんです。だけどぼくは、ビジネスをやる以上は「上場」というのは当たり前だと思っています。そこでやっとスタートラインに立つんです。

もちろん、上場したから幸せかといえばそんなことはまったくない。お金があるから幸せ、ということはありません。たまに高級なお店に行くときもありますが、ぼくはぜんぜん「日高屋」でいい。日高屋「が」いい。日高屋、横浜の家系ラーメン、大戸屋、ココイチ……。こんなにうまいもんはない、と本気で思っています。

15万の家賃が、30万、400万円に

15万だった家賃が30万になり、ヒルズに移転することで400万近くになりました。正直「死ぬな」と思いました(笑)。やはり従業員も不安がるんですよね。「大丈夫かな、こんなになって」と。

ぼくは少しでも安心してもらうために、従業員とその家族を当時借りていた六本木ヒルズの34階に集めました。夜、オフィスを暗くしておいて、ブラインドを一斉に上げていくわけです。するとグワーッと夜景が見えてくる。真っ暗な中、六本木の一等地から見渡す光景に、みんなめちゃめちゃテンションが上がっていました。

そもそも、なぜヒルズに移転することにしたのか?

ソフトバンクの携帯を売っていたとき、「もし競合の会社がソフトバンクと同じビルに入ったらイヤだな」と思っていたことがあるんです。ヒルズに来た理由は、明らかにグーグルさんがいるからです。つまり、他の会社が「やられたらイヤだな」ということをやっぱりやりたかった。

ちなみに、いくつか移転候補がありました。当時、原宿にニコニコの本社があったので、そのビルも候補だったんです。

これは余談ですが、実は「ヒルズに入りたい」と言ったとき、一度軽く断られているんです。ヒルズ側に「事務所は入れたくない」という方針があったからです。そこでぼくは「違います。うちはメディアです」と話をしました。六本木ヒルズには、テレビ朝日もJ-WAVEも入っています。よって「UUUMは最先端のメディアで、個人がメディアになる時代なのです」とプレゼンしました。

また、森ビルは上場しているから入れるわけではなくて、世の中のトレンドをつかんでいる会社にいち早く森ビルに入ってほしい、と仰っていました。そこで「絶対にぼくらは次世代のメディアになります」と説明させてもらって、入居が決まったのです。

ちなみにジャフコさんから5億円の資金調達をして、森ビルが入居を認めてくれたのですが、結果的に家賃を1年分「前払い」しました。やっぱりそこはベンチャーなので業績がものすごくあるわけではない。家賃と敷金とで軽く1億円は飛んでいったんです。そのときはさすがに「大丈夫かな?」と思いました。

「原宿ヒルズ」から「六本木ヒルズ」へ

2014年9月22日、ぼくらは六本木ヒルズに移転しました。

今では考えられないですが、広いガランとしたスペースに20人くらいしかいませんでした。めちゃくちゃさみしいんです。100坪以上のところに20人しかいない。「大丈夫?」みたいになったので、社員募集をしようということになりました。

そこで100万円くらいかけて、マイナビかなにかに募集を打ちました。すると書類が全部で千何百通も届いたんです。やっぱり「勤務地・六本木ヒルズ」というのは違う。その中から10人くらいしか採用しなかったのですごい倍率になってしまったのですが、場所によってこんなにも反応が変わるんだな、と思いました。結果的に原宿じゃなくてよかったかもしれません。

今後も拡大はしていきたいと思っていますし、来年にはミッドタウンにオフィスが移ることが決まっています。

もしユーチューブがなくなっても……

「ON SALE」時代――。1000万で会社をつくった。企業さんはお金をくれない。でも、クリエイターにはお金を払う。どんどん会社の資金は減っていく。そのときは、やっぱりつらかったです。

もちろん給料は、ぼくが払うわけです。光通信時代に貯めていたお金が、みるみる減っていく。1年間で1000万以上減っていく。どうやって食いつないでいたのか、もう思い出せないくらいです。

昔も今もぼくができるのは、クリエイターを信じることだけです。その点で、ものすごく人に恵まれているとしか言いようがありません。初期のメンバーも本当に一緒になって会社のことを考えてくれたし、ユーチューブのことを教えてくれました。

よく「スカウトをする秘訣は?」とも聞かれるのですが、ぼくはスカウトしようとは思っていないのです。ただおしゃべりがしたい。シンプルに、ユーチューブで活躍してる人と話せるのが楽しいんです。「どうやって作ってるの?」「どういうリズムで編集してるの?」と聞きたいだけなんです。

だから、もしユーチューブがなくなって、彼ら彼女らがユーチューバーじゃなくなっても、普通にたぶん一緒にいるでしょう。それが楽しいし、幸せだからです。

うちは「タレントとマネジャー」ではなく「バディ」と言っています。「マネジャー」とか「アシスタント」と言うと「上下」ができてしまう。でも、クリエイターとぼくらは対等だし、隣に寄り添って「ヘイ、バディ!」と言える間柄がいいよね、と思っているからです。

クリエイターのためには、なんでもやります。フロントで稼ぐことはもちろん、税制対策で法人化させるようなバックヤード業務も全部請け負うし、なんなら資産運用までやります。そこまでやっている。そこまでトータル的にサポートして、はじめてこのビジネスは成り立つものなのです。

ただ、別に特別なことではありません。

体調が悪かったら風邪薬を送るし、バレンタインデーやホワイトデーもやるし、誕生日にはメールも贈る。友だちや家族であれば当たり前のことをぼくはやってるだけなんです。



HIKAKINさんとの原宿でのランチ


荻野さんとの出会い


Kazuさんと新宿ルノアールで


瀬戸さん。初めて会ったイベントで


あさひさんと同じくイベントで


ジェットさんと会った時の写真


UUUMに商号変更したときの飲み会


まだまだ書きたりないことが盛りだくさんですが、またタイミングをみて書きたいなと思います!

そんなこんなで、あっというまに7年目になった「UUUM」をこれからもよろしくお願いします!!

※一点、補足です。この文章自体は、ぼくが思ってることで100%間違いないのですが、さすがに書く時間がなく、WORDSの編集者・竹村さんに手伝ってもらいました。いつものテイストとは違う部分があるかもしれませんが、すごく助かりましたし、こういう長編のときは今後もお願いしようと思っています。

最後に。

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鎌田和樹
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