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韜晦、或いは告解
初めに、この文章は全て私個人の主観と記憶に基づいて綴るものであることを断っておきます。エア懺悔室のようなものです、こんな風に考えている人間もいる、とでも思って頂ければ幸いです。
今から語るのは、「人間不信」について、である。おそらく私の思考・言動の根底はこれに由来している。ここ半年、思い当たる要因を洗い出し、自分なりに考えてきた。原因と流れを時系列で書き連ねていこうと思う。
決して楽しいものではなく、かつ長くなると思うので面倒な人は閉じてもらって構わない。
私の来歴の話をしよう。
ごく普通の中流家庭に生まれた、先天性の両耳感音声難聴の子供だった。人工内耳の装用によりある程度の音を拾うことは可能で、意思の疎通はできるが、健聴者と比べて格段に劣るのは否めない。三人以上の会話は未だに苦手だ。これに加えて、私が女であることがこの問題をより複雑なものにしたのだと思う。
一文でまとめるなら、「身障者に対する差別」と「虐待」だ。
○幼少期(~小学校入学前)
好奇心が旺盛な子供だったと聞いている。私は二歳で人工内耳の手術を受け、物心ついた頃には常に耳に装置をつけていた。物怖じしない子で、初対面の同い年の子や、道端で出会った見知らぬ大人ともお喋りをしていた。通っていた保育園には、私と同様に人工内耳や補聴器をつけている子供が他にも多数通っており、健聴者の子とも普通に遊んでいた。後になって知ったのだが、園の方針で難聴児が普通の子と同じような環境で過ごせるように積極的に受け容れていたのだそうだ。本や図鑑を読むのが好きで、本から得た知識を先生に披露して褒めてもらうこともしばしばだった。しりとりも好きで、辞書を読み漁っては手近な大人を捕まえて延々としりとりをしていた。今思えば本当に傍迷惑なガキである……。両親の方針でレジャーにも多く連れ出された。夏は海、春と秋は山とキャンプ、冬はスキー、というように。おかげでかなりやんちゃな子供に育ったと思う。運動神経はそんなに悪くないし、今も運動自体は嫌いではない。自分で言うのも何だが、周りの子に比べて頭は良い方だったし、運動もできた。長女だったこともあり、周囲の大人からはかなりもてはやされていた。
私が三歳の時、妹ができた。当時の私は母を妹に独占されるのが癪で妹をいじめた。いじめと言ってもかわいいものではあるが……。妹は幸い、健聴者だった。身内贔屓かもしれないが私より可愛い。双方にとって不幸だったのは、甘え上手な妹が母を独占するためにいつも母とじゃれあっていたこと、本当は羨ましいが妹のように甘えられない姉(私)はそれを横目に本を読み漁り、得た知識を母に披露することで賢い子として母の関心を引こうとしていたことであろう。その結果、私は人よりは賢い子に育ち、妹はずっと出来のよい姉と比較され続け、その上姉本人からもいじめられる、というなかなか可哀想な環境だったと思う。妹はその同情を以って母を独占した訳だが。そんなこんなで姉妹仲は険悪だったが、後に父に対する態度で団結する。
思えば、その頃から兆候はあった。父はよくいきなり怒り出し、大きな声で私や妹をなじった。怒られた理由はうるさい、とか玩具を片付けていない、とか些細なものだったが、一回目の注意などもなく、突然大声で怒られるのは恐怖だった。また、父は私や妹に不快なあだ名をつけ、私がそれに対して嫌だと言うと、お前は冗談が通じない子だと笑われた。怒る時にわざとそのあだ名を持ち出すこともあった。
○小学校時代
小学校に入る少し前に私達家族は引っ越し、地元の公立小学校に入学した。成績だけでなく、小学生の序列を決定付ける足の速さや運動能力でも私はトップだった。結論から言おう、私はクラスで浮いていた。周りが馬鹿に見えて仕方なかったし、調子に乗っていたのも理由の一つだろうが、地元の幼稚園由来のコミュニティに入っていなかったこと、何より障害者であることが決定的だった。出る杭は打たれるのだ。
高学年になると「いじめ」という形でそれは深刻化した。
聴覚障害とは、コミュニケーション障害とも言われることをご存知だろうか。一対一の会話なら出来るが、二人だと難しく、三人以上を相手にするのは至難の技である。先生の指示が聞き取れず、隣の子に聞くと、その子は親切にも教えてくれるが、それが度重なると面倒臭そうな顔をする。子供どうしの大勢での会話も似たようなもので、いちいち話を遮って訊き返すと皆そういう顔をする。決してその子らが悪い訳ではない、自然な反応だ。
母や先生にも相談した。彼らは「聞こえないあなたはそれを訊き返す権利がある、及び腰になる必要はない」と言った。訊き返すことによって孤立していくことに関しては「上手くやれ」と言うか、その迷惑そうな顔をした同級生を叱ろうとするばかりだった。前者はともかく、後者は叱られた子から恨みを買って孤立が余計深まるだけなので最悪だ。頼りにならない大人に早々に見切りをつけ、私は曖昧に笑って適当に合わせることを選んだ。周囲に馴染む努力はしたが、指示が聞こえていないとどうしても合わせているつもりが間違っていた、ということはままある。授業中は先生が助けてくれたこともあり何とかなったが、問題は休み時間だった。話の輪に入れず曖昧に笑っていると、今度はそれが気持ち悪い、と後ろ指を指される。この時期の子供というのは本当に残酷で、無邪気に異物を疎外する。私は平然とした顔を取り繕って本の世界に逃げ込んだ。ここまでの流れだと、本の世界を避難所としてしか捉えていなかったように見えるが、元々本自体が好きだった。好奇心を満たしてくれる活字の群れは最高の娯楽だった。そうでなければ逃げ場にも選ばないだろう。なかでも冒険譚が好きで、陳腐だが、どんな困難にも屈しない主人公は憧れで、当時の私の支えだった。
高学年になるとマセた女子達は群れるようになり、クラスカースト上位の男子グループと仲良くしつつ、クラス内の気に入らない子に嫌がらせをするようになった。私も当然ターゲットになった訳だが、周囲を見下していた上、負けず嫌いな性格だったので萎縮するどころか居丈高な態度に出た。屈するなんて持っての外だった。それが彼女達の気に障ったのだろう。近付くと避けられる、といった些細な嫌がらせから、上履きを隠される、鞄の紐を切られる、体育の着替えをトイレに投げ込まれる、貴重品の入ったポーチを盗まれるといった行為へエスカレートしていった。初め、私は親や先生に言おうともしなかったが、被害が実体を伴ってくると流石に問題化した。ポーチに関しては通報して盗難届けを出す、と宣言した翌日にどこからか見つかった。先生は私を心配したが、私は決して怒らなかった。泣かなかった。そうした反応でいじめっ子を喜ばせるのは癪だった。何かある度に先生は学年集会を開いて犯人探しに躍起になったが、犯人は結局最後まで見つからなかった。主格犯のグループの見当は付いていたが、大人には言わなかった。証拠もなかった。共犯者や黙って見ているだけの子もいただろう。それでも壊された自分の物を見るのは辛かった。手の届かないところからこっちを傷付けるような、卑怯な悪意は澱のように溜まっていって、胸の奥に鈍い痛みをもたらす。毎日クラス中から視線を浴びながら、私は見せびらかすように平然と本を広げた。大人には期待していなかったし、信じられる友人は殆どいなかった。必死に周囲を見下すことでしか自己を保てなかった。
家庭の問題もあった。
以前から乱暴なきらいのあった父が、手を上げるようになった。対象は大体私で、要領の良い妹はそれを見て泣き出す、というパターンが多かった。母が私と父の間に割って入り、暴力を振るわれることもあった。いきなり殴られ、殴られた理由が答えられないとまた殴られる。突然なのに分かる訳がない。大抵は些細なことで、一声注意してくれれば即座に改められるようなものばかりだった。それでも私に非があったことが発端なので、当時の私には殴られていること自体には反論できなかった。家から閉め出された時は、近所からの通報を恐れて母が中に入れてくれた。玄関の三和土で二時間近く土下座させられたことなんかもある。枕を悔し涙に濡らした翌朝、起きてきた父に少しでも不服そうな顔で挨拶をしたり、口を利かなかったりするとまた殴られる。「いつも通り」が求められ、紛い物のような家族劇を演じ、ちょっと落ち着いた頃にまたいきなり蹴られる。父は一切家事をしないくせに、娘たちに母親の手伝いを命じ、自分はスマホに没頭していることが多かった。そして時々私達に目を付け、手を上げる。「信頼」は裏切られ続けると、いつしか「軽蔑」に変わる。
私が関わっていない場では父と母はそれなりに仲睦まじく、暴力は明らかに私が原因だった。子はかすがい、の逆を行くようなものだ。父の暴力の後、私が母に訴えると、母はあなたにも原因の一端はある、と言い、結婚した時はこんな人だと思わなかった、と零した。何故離婚しないのか、となじると、お金が無いと返された。母は私が障害児だったことが判明して仕事を辞め、専業主婦になった。職場復帰はもう叶わず、パートの給与はたかが知れており、私は引き下がらざるを得なかった。火の粉はたまに妹にも降りかかり、それを切っ掛けに姉妹は父に対する嫌悪感で団結するようになった。
私の安らげる場は塾だった。塾の同じクラスの子は学校の子ほど馬鹿ではなかったし、話していて楽しかった。宿題に追われた中学受験だったが成績は悪くなく、第一志望校にも受かったが、学費の問題で今のところに落ち着いた。
また、母方の祖父母は両親と違って常に優しく、孫を可愛がってくれたが、それ故に心配を掛けたくなくて、相談できなかった。祖母はそれでも察したようで、「(母の)育て方を間違えたかしら」と言って私に謝った。こんな善い人に育てられても上手く行かないのならどうしようもない、と私は思った。たまにしか会えなかったが、居場所があるだけでも救いだった。今も親孝行とは程遠いが、祖父母孝行だけはするように努めている。
自分の境遇を恨んだことは数知れない。なぜ普通に聞こえる子として生まれてこなかったのか、なぜ普通の親のもとに生まれなかったのか。不毛な問いは常に付き纏ったが、自己憐憫に酔って悲劇のヒロインぶったところで、現実には王子様はやってこない。だからあれはメルヘンなのだ。いくら嘆いたところで、状況の改善には繋がらない。慰めてくれる相手は居なかった。母ですら、そんな私を冷たく笑った。今思えば大人の対応だろう。それでもあの時の自分は誰かの承認が欲しかった。
白状してしまうと、自殺を考えたこともある。誰にも相談できず、生きている意味が分からなかった。それでも、頼れるのは自分だけだった。だから私は私自身を生かし、自分を頼るしかなかった。無条件の肯定とは程遠いが、結局似たようなものだろう。いつしか、自分を不幸だと思うこともなくなった。考えても無駄だからだ。
誤解のないように言っておくが、私は私をいじめた相手のことを恨んではいない。本当にどうでもいいのだ。お互いの世界に、お互いは不要な存在だった、というだけで。あなたに割く感情自体が勿体ない。冷たい割り切りかもしれないし、それが一層あなたの反感を買ったのかもしれないが、私は徹底的にあなたという存在がどうでもいい。勝手に成功するなりくたばるなりしてればいいんじゃないですか。
結局一人で抱え込んだまま小学校を卒業したし、これからも親に話すことは無いと思う。
○中高生活
同い年の子と話が合う、誰も変に僻まない、という点で女子校生活は楽園だった。それまでの「自分は勉強が出来る方だ」という思い込みが、最初の一学期中間テストの数学の点数でバッキバキに折られたことも幸いだった。障害を持っていても、同級生はそれで何かを言うことはなかった。心からの友人を得ることができた。(学業は普通に大変だったし今もヤバいですが……)
初めに入った部活はバレーボール部だったが、顧問の注意の仕方が父親そっくりで耐えられず、半年も経たずにやめてしまった。その後文芸部に入り、途中で地歴部を兼部しつつ(塾の日程が合わず泣く泣く辞めた)今に至る。
文芸部というのは文(主に小説・短歌)を書く部活で、心情の背景や自分の思考を言語化していく訓練にもなった。私がこうして問題に向き合うことができているのも、そのお蔭だと今になって思う。部の先輩や同輩、後輩も皆良い人ばかりで、本当に恵まれている。
友人は私のことを寛容だと言う。例えば宿題が多くて不満を垂れることはあるが、確かに滅多なことでは私は人に対して怒らない。自分と違う意見を容易に受け容れられる方だと思っている。私はむしろ、他の人達が何故自分以外の人間に対してそこまで怒れるのか疑問だった。
その友人自身はとても感情豊かで、話していてすごく楽しい。彼女は人からよく相談を受け、親身に対応している。(残念ながら私は人から相談を受けることはあまりない)
人の気持ちに寄り添える彼女を見ていて思ったのだが、私はどうやら他人に期待をしていないんだな、と気付いた。だから、怒りをそこまで抱くこともない。
この学校に入って、失いたくない人達と沢山出会った。その人達と関係を築くにつれて、相手に対する自分の親愛の向け方が分からなくて、戸惑うことが増えた。一方的に親愛を贈ることしかできない。相手から信頼を寄せられると、それに怯えてしまうのだ。決してその好意が不快な訳ではない。自分に悪意を向けてくる人間が居なくなって初めて、自分が人を頼ること、人に頼られることが酷く苦手なことに気付かされた。いずれも、今までに経験がなかったから。
常に頼る相手は自分しかおらず、障害を含め、他人の手を借りることが多かったからこそ、それ以上の負担を強いようと思わなかった。誰も信じられなかったせいか、今でも自分の全ての判断の基準を徹底的に自分に据えてしまう。だから私は常に新しい価値観を求め、吟味し、自分の判断基準を自分の中でアップデートし続けようと努める。自分の基準すら完全には信じられない。誰かに裏切られたなら、それは自分の見る目がなかったせい、自分の行動が悪かったせい。期待も信用もせず、全てを自分の物差しでの価値判断に還元することは、優しさからは程遠く、どこまでも自分本位な行為だ。これが正しいことなのか間違ったことなのか、今の私には判断できないし、これを読んでいる人にどう映るのかも分からない。
父の話をしよう。不意に襲ってくる暴力さえ除けば、世間一般にはまともな人だと思う。もし父の頭がもう少しぶっ飛んでいたら、私は殺されていたかもしれない。愛があるのかどうかは知らないが、自分が殴った娘を私立学校に通わせ、勉強をさせてくれる程度には理性がある。その点で感謝はしているが、身内に対する態度に関しては軽蔑する。一度、私が家出して通報しようとしたら、「すればいい、多分俺は捕まるし、この家の収入はなくなるぞ」と放言した。暗に母と妹を人質に取っているとも聞こえた。私を殴る際にも、理由が必ずあった。それがあるから反抗が難しかった。頭がよく、人付き合いも上手く、大手商社でそこそこのポストについている。それを維持するにはそれなりの努力が必要だっただろうし、それを否定する気はない。だがそれはそれ、これはこれ、なのだ。これは推測に過ぎないが、もし私が男で、健常者として生まれていれば、このように拗れることもなかっただろう。父の実家は男尊女卑的で、父は長男だった。にも関わらず生まれた子供は二人とも女で、父の妹の子(私の従兄弟に相当する)は男だ。父がその従兄弟を可愛がっている様子を見るとどうしても、もし……という想像が拭えない。
父は感情的になると大声で怒鳴る。手が出る。それを見て育った私は未だに声を荒げる人(特に男性)が苦手だし、反動で自分が感情的になること自体に強い拒否感を覚えてしまう。
その影響か、今もこうしているように、常に自分の感情の根底を探り、出来るだけ言語化に努めようとする癖がある。感情的になる自分に対し、常に冷ややかに客観的な視線を浴びせるもう一人の自分が居る。SNSだってそうだ。自分の環境をネタにするということは、意図的に客観的な視線を浴びせることでもある。感情的になることを恐れて、自分をコンテンツとして一歩引いて眺めれば、半強制的にでも客観的になることができた。でも、それは自分の素直な心情と向き合うことを避けている、とも言える。このことに最近ようやく気付いた。私は感情的になれない人間だが、自分と違って感情で動くような人々を否定している訳ではない。むしろ、それだけの思いを抱いて行動できることを羨ましく思う。自分は今まで器用にやってきたつもりだったが、実はとんでもなく不器用なんじゃないか?
人生こんなはずじゃなかった。父もそう思っているだろう。全くだ。どこで間違えたかは分からない。気付いた時にはもう手遅れだった。無理に踏み込んで傷を負うより、就職して家を出るまで私が息を潜めて、家族ごっこに興じて時が経つのを待っている方がお互いの為かもしれない。
かつて、父から私への愛はあったのかもしれない、私が上手く受け取れなかったのかもしれない。今ももしかしたらあるのかもしれない。かつての私はあなたから真っ当に愛されたかった。でももう私はそれを受け止められるほど無垢な子供ではないし、父を赦そうとは思わない。家族とはつくづく不気味な共同生活だと思う。
私は人に期待をしていないが、人間という総体の知的努力や愚かしさ、多様性を好ましいものだと思っている。ゆるやかな諦めを抱きつつ、名も知らぬ人々の動向に不思議と目を惹かれる。歴史が好きなのもきっとそのせいだろう。未来から眺めた過去の営みは滑稽で、その時代で足掻いた人々の軌跡のいくつかは後世にも伝わっている。
例えば、人の命の価値なんて、時代や状況に応じていくらでも変わるものだ。命より大切なものなんてない、と貴方は反論するかもしれないが、そう謳える時代・環境に生まれてきたことに感謝するべきだと私は思う。戦乱や革命を経て、それが「当たり前」である社会を築こうとしてきた先人の意志は尊い。『ペンは剣よりも強し』私はそう思う。社会がそうあるように努めなければいけないのだ、とも。これが至言であることは歴史が証明している。
文学や知識は私を掬い上げてくれた。私は過去の誰かが紡いだ文章によって救われた。その点で、私は人間を否定しようとは思わないし、表現の自由やエンタメを愛している。我ながら無邪気な憧れだと思う。諦めと希望は両立するし、営みの醜悪さと美しさとは同居し得るのだ。矛盾を抱えて生きている自分もまた、人間臭いのだろうと思う。健気で笑ってしまう。
誰にも寄り掛からずに生きることは酷く寂しい。かつての自分は孤独を笑い飛ばせるほど強く在ろうと肩を張り、いっそ心なんて無ければいいとさえ思っていた。なのに、今では優しさに触れて、泣きたくなってしまう。自分は誰かを信じたかったんだな、と切に思う。
空が白みはじめたのでそろそろお終いにします。