盆日小話
お盆に入った今日、私の両親が向かったのは、母方の祖父・曽祖母・祖父が入っている墓だ。私はというと、体調があまり芳しくなかったのと、卒論の進捗の悪さのせいで付いて行くことは断念した。ただ、これだとあまりの罪悪感に居た堪れないので、代わりに故人の思い出を語ることで供養になりはしないかと思いながら、自分勝手に曽祖父・曽祖母・祖父の順番に、書き散らしていこうと思う。
一、
まずは曽祖父について。曽祖父は、私が生まれる前に亡くなっているが、小さい頃、この時期に祖父母宅の仏間に飾られる写真で、一方的に顔は見知っている。戦争で満州に行き、荒れる海を船の底で転がりながら、命からがら引き上げてきたそうだ。まだ中国のことを支那と言っていた時代のこと。
二、
次の曽祖母は、私が物心ついた頃はまだ健在だったため、しっかりと記憶にある。大正の末期生まれでかなりの高齢。普段は施設に入り、お盆とお正月に祖父母宅へ帰ってくる生活をしていたためいつも一緒というわけではなかったが、足腰が弱り、車椅子に乗っていたのをよく覚えている。
また、痴呆も入っており、よく私のことを母の名前で呼んでいた。その度に、母本人に訂正されて、一度は納得するのだが、また何度も同じことをする様子が、小さかった私には不思議だった。余程小さい時の母が、曽祖母の中では印象に残っているのだろう。母は、「クリスマスと私(母)の誕生日が近いからケーキを一緒にしようと言われていたのを可哀想がって、きっちりホールを2つ分買ってくれた。弟(叔父)と二人で、よく可愛がってもらった。」と、私に語ってくれたことがある。
さて、曽祖母が亡くなったのは、確か私が小学校高学年の時だっただろうか。それまでにも葬式に参加したことは数回あったのだが、その頃の私にとっては、初めて訪れた近しい人の死だった。
よく物語やドラマなどで、亡くなった人を眠っているようだと喩えているように思う。しかし、まだ幼かった私にとって、施設から祖父母宅に帰ってきた曽祖母の姿は、生物としてのあらゆる時間が停止していて、眠っているというよりはもっと物体に近く、まるで人形のようだ、今目の前にあるのは、曽祖母に似せて作った蝋人形か何かではないか、とぼんやり考えながら、悲しみよりは訝しむような気持ちで枕元に座り、曽祖母の顔に刻まれた皺の一本一本を目線でなぞって確かめるように眺めていた。
三、
最後に、祖父について。3人の中では一番長い時間を共に過ごしたため、書くことも書きたいことも多く、長々と続いてしまったことを許してほしい。
祖父は、私が中学二年生の時に亡くなった。それまでも二回ほど脳卒中で倒れ、手足に一部麻痺が残りつつも何とか回復していたのだが、3回目に倒れた今回は、手術は成功したものの意識が戻らず、最後は肺炎で亡くなった。まだ72歳だった。
亡くなる前々日ぐらいには、私もお見舞いに行っていた。私自身、持病である意味入院慣れしているからか、病院という場所やそこにいる患者に対しては、特段怖いとか、不気味だとか、そういった感情はなかった。しかし、この時の祖父の様子は、今でも強く印象に残っている。
父に連れられて、弟と二人で祖父がいる病院へ行った。病室には、先に祖母と母がいた。久しぶりに会った祖父は、目は閉じられていて意識は無かった。祖父の手に触れると、手術後に発熱したようで体温が高く、汗をかきながら常に苦しそうな呼吸をしていた。
母の話によると、看病をしているとたまに目を開けることもあるそうだが、それでもやはり、焦点は合っていないらしい。耳は聞こえていると医師が言っていたらしく、私も、祖父に自分が来た報告と、労わりの言葉を耳元でかけ続けた。熱と戦う祖父を見ていると、「頑張れ」なんて無責任なことはとても言えなかった。
落ち着いて考えると、祖父の容体は明らかに良くなかった。しかし、当時の私は、祖父が亡くなるとは少しも思っていなかった。今まで二回もどうにかなっているのだから、今回だって、という気持ちでいた。
ただ、周りの大人たちの間に漂う空気は重かった。下を向く父、目を真っ赤にした母と祖母。その中で、何だかよくわかっていないような顔をしていた当時小学生の弟の姿が妙に浮いていた。今考えると責めるようなことではないのだが、当時の私は、いくら回復の見込みが薄いからってベッド脇で啜り泣きを漏らす母と祖母に対して、「おじいちゃんはまだここに居るのに、何でそんなことをするんだ」と反発するような気持ちを密かに持ちながら、祖父の額をハンカチで拭っていた。
祖父は、意識が無いため自発呼吸が弱かったのか、気管支切開をされていた。文字通り、喉を切り開いたところに青い透明の管が入っている。その管が、私の手の指二本は入るだろう今まで見たことないぐらい大きく、その様子があまりに苦しそうに見えて、この管はいつ外れるのだろう、早く外してあげてほしいとひたすら願っていた。学校で次の授業の支度をしている時に、教室に飛び込んできた担任の先生から祖父が亡くなった知らせを聞いた時には、悲しみと同じくらい、もう苦しまなくて良いんだ、祖父の苦しみは終わったのだと、人生最後の戦いを終えた祖父を労わりたいような気持ちが胸にこみ上げた。
祖父の辛かった姿ばかり書くのも何なので、ここからは思い出話や聞いた話を書こう。
祖父とは、私が中学生になるより以前の時代の記憶が多い。私は、幼稚園に入って絵本を自分で読むようになってからは、祖父からよく字を教わっていた。読めるのならじき書きたくなるのではないかと、最初に平仮名で自分の名前の書き方を教えてくれたのが祖父だった。また、私が、祖父の読む新聞の文字を指差す度に、一字一字私が飽きるまで根気よく読み方を教えてくれていた。今思うと、これが私に文字を読み続ける力と楽しさを与えた重要なエピソードではないかという気がしてくる。小学生になってからは、よく宿題を見てくれた。私は、初孫ということもあって、よく可愛がってもらった記憶がある。
祖父は、滋賀県の琵琶湖の北辺り、ある家庭の6番目の子供として生まれる。1番目と2番目のお兄さんを戦争で亡くし、大家族だった祖父は、学校を出るとすぐ丁稚(母がこう言っていた)として様々な店で働いた。私が聞いた限りでも、菓子屋と染物屋に勤め、鉄鋼系の仕事をしていた時に、技術を教えに行った先の家に二人の姉妹がいた。姉妹のうち、姉の方が今の祖母である。整った顔をしていた祖父に祖母が一目惚れをし、ついでに男の子が欲しかった曽祖母に気に入られ、入婿となったのだ。
私が覚えている祖父は、旅行好きでグルメな人である。祖父母宅にあるアルバムを開くと、旅行先で撮った様々な景色と、そこに写る若い祖父母と子供姿の母。若い時は家族を連れてよく旅行や買い物に行っていて、インドア派の祖母と母は若干辟易していたそうな。脳卒中で倒れて手足に麻痺が残ってからも、リハビリを兼ねて毎日杖を片手にゆっくりと散歩に出ていた。また祖父はジブリ映画が大好きで、私を車の助手席に乗せて『崖の上のポニョ』と『借りぐらしのアリエッティ』を観に映画館へ連れて行ってもらったりもした。今思うと、若い頃は働き詰めだったため、できる限り自分の自由を満喫したかったのではないかとも思う。
四、
ここまで、お盆の供養と称し勝手に書いてきたが、これを書く際に母から少し話を聞いたりして、私の記憶を整理するいい機会にもなった。これが少しでも祖父たちの供養となれば嬉しい。
最近は祖父母宅にもめっきり足が遠のいてしまったが、今でも、お盆の時期になると、思い返すことがある。小学生の頃の記憶だ。
祖父母と叔父に両親と弟。そしてそこに、祖父母宅へ帰ってくる曽祖母を交えて、ちょっと豪華な夕食を囲む。食卓には、久々の集まりということと、グルメな祖父と曽祖母のためにとられたお寿司とお吸い物が並ぶ。テレビからは、高校野球のニュースが流れる。夕食後は、母と祖母がデザートにと切ってくれた西瓜に、弟と二人で齧り付き、口周りを汁まみれにした。そんな夏の記憶が、今も私の脳内の片隅に、大事に仕舞われている。