母との時間(10)
母との時間も、最後となります。
長くなりますが、お付き合い頂けると幸いです。
2022年11月20日
母と過ごした30分は、掛け替えのない日となりました。
この日は、祖父(母方)の命日でした。
そして、父方の祖父は、20日が月命日でもあったため、母との面会前にお墓参りをすることにしました。
母は、お墓を大事にする人です。
母が出来なかったお盆とお彼岸でしたから、母の代わりに出来ることをという思いもありました。
そして、17時面会のため病院へ。
夫は、咳してるとお母さんに心配かけるから車で待ってるよ。
ゆっくり、お母さんと会っておいでと言ってくれて、私のみの面会となりました。
ナースステーションからほど近い個室に、ベットごと移動しての面会となりました。
部屋に入ると私を見て泣く母でした。
お母さん、今日は何の日か分かる?
11月20日だよ。
おじいちゃん達とお父さんのお墓掃除してきたよ。
…おかあさん、何にもわからなくて…再び泣き出す母でした。
背中をさすりながら、
お墓ね、綺麗になってたよ。
お父さんのお墓は、相変わらず桜の木のおかげで、落ち葉が沢山だった〜。
ありがとう。
おかあさん…もう死ぬから…
もう、ここへ来なくていい…
お母さん、私に逢いたいって思ってくれないと、私も来れなくなっちゃうよ。
今日もね、作ってきたよ…
食べる?
後でもらうよ…
おかあさん、携帯ダメにしちゃった
電源が入らなくなっちゃって、〇〇(義弟)に渡した
そっかぁ、今、大部屋だから電話できないしね、後でどうなってるか様子聞いてみるね。
今日ね、〇〇が来てくれた
そこに座って、笑ってた
2年前に他界した母の甥のことを話だす。
懐かしい子どもの頃の話、はじめて聞く話もあった。
看護師さんが呼びにくるまで20分程、母との時間でした。
看護師さんに、作ってきたものを見せて、食べさせてもらえるようにお願いしていると、母が左手を真っ直ぐ上に上げて、手をおいでおいでするように振っている。
お母さん、また、来るからね
母の優しい笑顔が溢れる
看護師さんが、エレベーターの所まで送ってくださって、
よろしくお願いします
母を託してきた。
11月21 日
何時もだと会いに行った翌日に、母からLINEにメッセージがある。
今回は、携帯の不具合からそれもあるはずがなく、寂しいなぁと携帯を眺める。
15時過ぎに、妹からLINEで病院から連絡があって
食べた物を嘔吐してしまった。
吐瀉物に、血が混じっている。
お姉ちゃんが持っていったものを食べ過ぎたんじゃないかな
そう言う妹だった。
イヤ、何も食べさせてないし、食べてないよ!
仕事の休憩中に、LINEで返事をした。
11月22日
仕事が終わって車に乗り込む。
11月22日 0時15分
携帯が鳴る。
妹から、
お姉ちゃん、お母さんが…
病院からすぐ来てくれって
ともかく、行ってくるから…
0時35分
旅立った。
妹夫婦と、姪が送ってくれた。
葬儀は、11月28日
お通夜はせずに、納棺式をすることに決まる。
父の時は、母を1人にしたくなかったので、仕事を1週間お休みをもらったのですが、今回はギリギリまで仕事をすることにした。
同僚達は、大丈夫?と気遣ってもくれたのですが、逆にひとりになりたくなかった。
公休日含めて、5日休んだ。
納棺式後の食事は、妹夫婦と孫たち。
母の陰膳を囲んで、あたたかい時間がだった。
セレモニーホールに、夫と娘と泊まる。
母からのプレゼント
母の亡くなった日は、22日
甥の誕生した日がかぶる。
内孫で長男でしたから、そこなんだろうな…。
父は、息子との縁の数字を遺して行った。
はじめての男の子だった息子。
父を唯一おんぶした子でした。
そして、初孫の娘。
母の喪服をどうするかと妹と話ていたら、娘が引越で喪服の上着が見当たらないという。
ここにある理由のひとつかもと、娘がもらうことにした。
遺品の整理をして、私は着物の帯を1本もらった。
宝飾品は、かなり売ったと聞いていた。
残っていた指輪を娘がもらうことにした。
妹が、エメラルドの指輪の鑑定書があるんだけど、指輪が見当たらないと言い出す。
母の誕生石でもあり、かなりの高額の指輪だった。
売ったのかな?…
そんな会話で終わった。
告別式が終わり娘を送る車の中で、夫と娘とその話になり、あれだよねと…。
年末年始を、私のところですごすようになって、最後の年末年始となった年…亡くなる4年前…は、娘が父の車で連れて来てくれて、送ってくれた年。
孫の運転で、ここに来れたと嬉しそうにしてた日を思い出す。
母から初孫の娘に、ミーちゃんこれ!
母の意志で、おばあちゃんが守ってるからね。そう言って渡されたのが、エメラルドの指輪だった。
娘も、そうだよね。
大事に持ってるよ。
夫も、おかあさんの意志で譲り受けたものだから、大事にするんだよと…。
おばあちゃんの遺品は、ほぼ、初孫の娘が譲り受けた。
収骨の際出てきたものは、腰を手術したときのボルトや金具、膝の手術をしたときの金具が出てきた。
係の方に、生前苦しめられていたものだから、こちらの方で処分してよろしいですか?と、配慮頂きお願いした。
膝の金具は、箸で持ってみた。
収骨する箸で、かろうじて持てる重さだった。
こぶし程の大きさで、鐙のような形、妹夫婦と足枷のような感じだったはずだよね。
妹が、お母さん
もう、苦しまなくていいからね。
そうだね…と…義弟とうなずく。
ご興味のある方は、こちらをどうぞ↓
私
セレモニーホールから移動中
タバコのにおいにむせる
父が居るんだな…
母が入院してから、右膝の痛みが辛かった。
もともと半月板損傷から、水が貯まることもあったので、膝の運動は日課となっていたが、ともかく重苦しくて…サポーターで凌いだり湿布貼ったり…腰までいたくなり、息子の結婚式で立っていられるだろうかという不安もあった。
腰もヘルニア持ちであるので、仕方ないのかな…などと思っていた。
告別式当日、和装だったことで帯がコルセットになっているのかなって思うくらい、痛みが軽減されていた。
今思うと、膝の痛みや違和感もなかった気がする。
帰宅してゆっくりして、何気に夫が
膝、体操しなくていいの?
えっ!?
すっかり忘れてた…けど、膝が曲がるよ。
痛みや不快感もない。
腰も気にならない。
お母さんだね。
痛みを知らせてくれてたのかも。
そして、持っていってくれたのかもね。
夫としみじみ語る夜だった。
母との時間
母は、特異体質な様子もあり、自分の身から親族の痛みを感じ取る事ができる様子があった。
痛みとして感じたり、その他に、身の回りに知らせが来るとも言うことがあった。
朝から蜘蛛が仏壇の前から離れない。
気がつくと、そこに居る。
電話でそんな話を聞いたことを思い出す。
翌日、里帰りすると、隣のおばさんが
惠ちゃん、茨城のお母さんの弟さんが危篤だって、惠ちゃんに伝えてって言って出掛けたよ。
携帯の無かった時代です。
母の話を思い出す。
結城紬を織る叔父で、この冬に惠の紬を織るからな…そんな約束していました。
私の誕生日の前日が、叔父の命日となった日です。
母の気になることは、私は否定せず耳を傾けることにしていました。
祖父(母方)が階段から転落して、寝たきりになったとき、原因がわかるまでの数日、寝息に悩まされたことがあった。
母に話すと気になる身内に連絡。
祖父のケガがわかったことがあり、何故、私だったのか…。
祖父が身につけていた肌着は、私の初任給でプレゼントしたものだったからじゃないかと…憶測ですが…。
職場の先輩に、1度分かってもらえるという道を作ってしまうと、頼られちゃうから考え過ぎないようにと言われたことがある。
その方のお母さんは、そちらのお仕事をされている方でした。
映画の『ゴースト』を観たときに、ふとこの理由を理解したりもしました。
私が幼い頃は、家の跡取りとして育てられたことから、母との接点は少なくて…
どちらかというと、妹が母を独占していたように思っていました。
私は、父方の親族に作法やら伝統やらを教えて頂き、父に連れられていたことが多かった。
結婚する時に、親族の伯母達が想いがある人と結婚できて良かったと手を握って泣いてくださる。
明治、昭和初期の結婚は、恋愛には程遠いものだったからでしょう。
母に相談したとき、嫁に行くことに異論はないと言った母でした。
父と母は、恋愛結婚でした。
家の犠牲になることは無いと…。
しばらく父には、裏切り者と言われましたが…
遺産放棄して、今の私がある。
父と母のもとに生まれて良かったと思う。
そして、また、父と母のもとに生まれたいとも思う。
父と母から学んだことは、自分をどう表現して言葉をつむぐのかということでした。
次回は、言葉をつむぐ
私が今思っていることを綴ります。
長くなりました。
母との時間にお付き合いくださり、そして、最後までお読みくださり、ありがとうございました。