『共感ありきで人と接する。その脆さから共感と深化を考えてみる』の巻
最初に伝えておきます。
共感
って言葉スキです。共感できる意見に出会えることも、そして共感を深化させられる人間関係を構築できることも。おそらく僕だけではなく、共感を求めているひとも多く存在すると思います。
共感できる瞬間にであうために、日々
できるだけお話の機会を設けたい
話しの意図することを考えながら聴く
その思考に至った経緯を考える
ように努めようと思っています。
今回共感について書いてみようと思ったのは、
相手に対しファーストインプレッション(第一印象)がとてもよかった場合
相手の肩書に「すごい」と思っていた場合
親睦を深めるメリットを感じた場合
に、素直に共感しているのか?と思ったからです。
ひとに対し、外見などで判断すべきでないことは当然ですね。特に深化させたい関係ではなおさら。
でも、理想ではあっても、現実には実行するのは難しいものです。そこでおこりやすいのが
迎合
かなと思います。「そんなつもりはない」「本当に理解できている」と思われるかもしれませんが、残念ながら起こりうることかなと思います。
相手に対してはまだ良いと思いますよ。特に関係が浅い場合には、相手の気を引くことにもなるし、こびへつらうわけでなければ、気分悪いわけでもないし。
でも自分を偽り、相手に合わす思考の持っていき方をするとどうでしょう?
いずれ発言に対し矛盾が生まれることもあれば、会話していても、合わすだけで想いを伝えてくれているわけではないと感じてしまうでしょう。
そして、自分でない『自分』が生まれたとき、理解してほしいのに理解されないと感じることがでてくると思います。
頑張れば頑張るほど、理想の関係から離れていくって辛くないですか?
切れたくない縁かもしれません。怖さから自分を出し切れないかもしれません。
それでも、本当に共感しあいたいなら。
自分をだしていくのが良いかなと思います。
むしろ出すことによって切れる縁であるならば、いっそご縁にならない方が、後々には良いかと思います。
縁はないが、時によって情がうまれる
なんてことにもなるので。そうなると離れること難しくなってしまいます。
共感と迎合って、傍から見れば似たように見えるかもしれません。そしてその関係に憧れてしまうこともあるでしょう。
でも実際には全く違うものです。大きな違いがあるとすれば、
深化させられるかどうか
ではないでしょうか。
共感は一時的に築くもの、感じるものではなく、深化させられる関係において生まれてくものだと思います。
その過程では、思考の違いを感じることもあるでしょう。でもその違いを感じるからこそ、違いがあるからこそ、
そこに自分があり、共感したい相手が存在する
ものだと考えます。互いが互いの存在を認めあえる。まずは自分が独立した存在でありたいですね。