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灯台の歴史《世界編》
灯台のはじまり
灯台そのものの起源は定かではない。しかし漁業や海運といった海上での様々な営みは古くから行われており、陸地や暗礁など、座礁の危険のある個所へ目印となるものが必要であった。そのために自然発生的にではあったが海岸で船からの目印になるように火を焚き、また高い位置に火を灯していたと推測されている。
紀元前300年には、世界七不思議のひとつであるロードス島に建造された巨象(図1)の掲げた手の上には信号用の灯火が灯され航海の目標になったという。
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図1)ロードスの巨像の想像図 (globalmarvels.com)
また世界七不思議のもうひとつ、エジプトのアレクサンドリアには60メートルもの高さのファロス灯台(図2)があった。花崗岩の反射鏡の前で木竹や枯草などを松脂に浸し燃やし、遠く100キロメートルの海上まで光が届いた伝えられている。ファロスは後に灯台やそのほかの航路標識を総称する語となり、灯台建築学である「Pharology」という言葉の源にもなっている。
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図2)世界の七不思議の1つであるアレクサンドリア灯台の想像画
灯台の登場
大航海時代に入ると航路の安全確保は重要な課題となっていた。そのため航路標識として灯台の役割が重要となり、高所に灯火を灯す塔を建設し現在と同様の灯台が現れることになる。
1595年に塔としてボスポラス海峡に建設されたコルンナ灯台は、石造りの小塔に灯油を用いて20個の銅製の皿に灯火を燃やした。フランスでは1584年から建設が始まり1611年に初点灯した高さ59メートルのコルドゥアン灯台(図3)がある。「海のヴェルサイユ宮殿」の別名で知られるこの灯台は、16世紀でもっとも有名な建築家ルイ・ド・フォア設計により宮殿のように豪華な内装を施され、大広間、王の間、そして礼拝堂などがあり、その美しい姿は現在でも見ることができる。
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図3)コルドゥアン灯台 (フランス/ル・ヴェルドン=シュル=メール)
18世紀になると産業革命によって海上ではそれまでの帆船に変わり蒸気船が登場した。蒸気船によって船舶の速度が増したため、航行する船舶はより早く陸地や暗礁を把握しておく必要に迫られた。それまでの灯台では灯火を燃やすだけのものや、反射鏡によって光を照射するものがほとんどであったが、その光量では視認するまでにかなりの距離まで近づかねばならず、航海上のリスクは増大していた。しかし当時のヨーロッパにはまだ灯台の数も少なく、1800年の統計ではフランスで20基、イギリスもフランスより少し多い程度で、世界で灯台を10基以上持つ国はこの2カ国しかなかった。またこの頃の灯台の多くは諸地域の個人や領主などが建設して管理している私設のものであり、近海を航行する船舶から通行料を取っているような現状だった。
19世紀に入っても船舶の海難事故は日常茶飯事であった。当時の海難事故は嵐に遭い行方不明になるよりも、陸や暗礁に乗り上げて座礁することがほとんどで、まだ救難も難しかった時代にとって船が座礁することはそのまま死を意味していた。
フランスの博物学者2名による調査では1817年から1820年の3年間で毎年100隻近いフランスの船が行方不明になっていると発表されている。またイギリスのロイズ(ロイド)保険の帳簿には1816年だけで362隻が“海難”あるいは“消息不明”と記されている。
ちなみにロイズの始まりは17世紀末にまだコーヒーショップだったころに、船舶に対して「沈む」と「沈まない」に金銭を賭けてギャンブルにしたのが始まりで、賭けの対象となった船主は自分の船が「沈む」ほうに賭けて、実際に沈んだ場合はその当選金を損失に当てたという。これが現在の「保険」の始まりである。(図4)
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図4) Lloyd's Buildings lloyds.com
世界を変えたテクノロジー“フレネルレンズ”
19世紀初めまでの灯台は火を焚くことで灯を発していたが、その灯は弱く、灯台のほとんどが実際は役に立たなかった。それこそアレクサンドリアのファロス灯台やロードス島の巨象の灯りから3000年ものあいだその光量はほとんど変わることがなかったのである。
しかし1822年、世界の海を強く照らすテクノロジーが登場する。
“フレネルレンズ”である。
フランス人の土木技師オーギュスタン・ジャン・フレネル(図5)が発明したフレネルレンズは、プリズムの屈折によって光を束ねて増幅し一点の方向へ照射することができる画期的なレンズであった。(図6)
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図5)オーギュスタン・ジャン・フレネル(1788年- 1827年)
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図6)フロリダ州ポンスインレット灯台に展示されている一等フレネルレンズ
「海のヴェルサイユ宮殿」のコルドゥアン灯台が1611年に初点灯した際には大きな薪の束を燃やしていたが、その後ピッチとタールに変わり。1720年代に石炭になった。1782年には石油ランプと反射鏡が使われたが、洋上の船員たちからは灯火が肉眼で見えないと苦情が相次いでいた。その後、反射鏡の改良や灯火の位置を高くするなど改修が行われたものの、船員たちからの苦情は収まらなかった。
それから約半世紀、1823年にフレネルが改良したレンズがコルドゥアン灯台に設置された。その光がどのくらい届いたのかその場での計測は不可能だった。なぜなら光が水平線に消えるまで輝きを失わなかったからである。
計算によると33海里(約61キロメートル)先からでもコルドゥアン灯台の光は見えていたという。
1827年、フレネルが亡くなると弟のレオノールがフレネルの意志を継ぎ、やがてフランス国外からもレンズの注文が来るようになった。1832年にノルウェーからオークセイ半島に位置する灯台用に、次にオランダからゲーデレード灯台用としてレンズの注文が来て、ヨーロッパ各国の灯台にフレネルレンズが普及していった。
世界一の灯台先進国であったイギリスと、1810年に当時最高の高さを誇ったベルロック灯台(図7)を設計し灯台技師として不動の名声を得たスコットランド北部灯台委員ロバート・スティーブンソンは、1823年のコルドゥアン灯台点灯の頃からフレネルレンズに感心を寄せていた。しかし自国の反射鏡による灯台からの転換に時間がかかり、ロバートの息子アランが実際にフランスに視察に行き、スコットランドのインチケイス灯台(図8)にフレネルレンズを設置したのは1835年になってからのことである。
ちなみに『宝島』、『ジキル博士とハイド氏』で知られる作家ロバート・ルイス・スティーブンソンは、この灯台技師ロバート・スティーブンソンの孫であり、トマス・スティーブンソンの息子である。
その後、フレネルレンズはフランスとイギリスの国の威信をかけた技術開発競争へと発展し、1851年のロンドン万国博覧会、そして1855年のパリ万博を舞台に灯台先進国のライバルとして両国はしのぎを削っていったのであった。
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図7)ベルロック灯台(スコットランド、アンガス沖)
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図8)インチケイス灯台( スコットランド、フォース諸島)
アメリカ灯台事情
19世紀の中頃になるとヨーロッパ沿岸だけでなく、アフリカ、ブラジル、バハマ、トリニダード・トバゴまでフレネルレンズを設置した灯台が普及した。そこにはヨーロッパの帝国主義、植民地主義の背景があったことも忘れてはならない。
そんな中、アメリカだけは最新テクノロジーであるフレネルレンズをいまだ灯台に導入していなかった。
その理由は貧弱な科学教育基盤にあった。
19世紀初頭のアメリカには正式に工学技術を教える学校は皆無だったため、その科学・工学を理解する者が少なく、またヨーロッパの工学技術を認めない者が多かった。
しかしコルドゥアン灯台をはじめ、ダンケルやグランヴィルなどフランスの主要な海岸ですでにフレネルレンズの光を経験した船員たちにとって、旧態依然としたアメリカ沿岸部の灯台の脆弱な光には不満が急増した。その後、予算問題や既得権益の問題などの紆余曲折の末、ついに合衆国議会によってフレネルレンズ導入と合衆国灯台委員会の設立が決定する。
そして1854年、かの魔のバミューダ海域に最も近く「大西洋の墓場」とよばれた海域にせり出したハッテラス岬灯台(図11)に一等級フレネルレンズが導入された。
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図11)ハッテラス岬灯台。1999年に内陸へ移設。(アメリカ、ノースカロライナ州)
太平洋岸では1845年にフロリダとテキサス、翌1846年にはオレゴン、1848年にはカリフォルニアが州として合衆国に加わり太平洋岸の領土が拡大。そしてゴールドラッシュによって大貿易港へと成長したサンフランシスコではアルカトラズ、フォート・ポイント、ポイント・ピノス、ファラロン諸島と相次いで灯台を建設。これを皮切りにアメリカは続々と太平洋に光を灯していった。
そして1859年までにアメリカは自国の灯台すべてをフレネルレンズに転換。1856年には大西洋沿岸やメキシコ湾に500基以上、太平洋沿岸には21基と、アメリカの灯台数はイギリス全土の2倍、イギリスを除く全世界の1/3を占め、わずか数年でアメリカはフレネルレンズの灯台数が世界一の国となった。
20世紀から現在
20世紀に入ると第一世界大戦では機雷の敷設や見張り塔として灯台が軍事利用され、第二次世界大戦でフランスはドイツ軍によって灯台100基以上とレンズのほとんどが破壊された。
戦後はレーダー技術や無線ビーコンによる航法が発達し、1990年代には衛星を利用したGPSが一般的になった。こうして新たなテクノロジーによって灯台が航路標識の主役であった時代は終わりを告げたのだった。
※『灯台の歴史日本編』に続く(近日公開)
参考資料
『灯台の光はなぜ遠くまで届くのか』講談社ブルーバックス
燈光会WEBサイト
https://www.tokokai.org/
『航路標識の歴史』 石坂幸夫
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jieij1980/76/4/76_4_176/_pdf
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