蓮田に未練はないの|見知らぬ人との会話の記録
2017年1月
「蓮田に未練はないの」
栗橋で電車に乗り込んできた彼女はそう言って電話を切った。
乗車口の脇に座っていた僕は、読んでいた本にうつむきながら彼女のヒールの硬質な音がボックスシートに収まったのを視界の外で見届けた。
「蓮田になにがあったのだ」そう思わずにいられないまま、数駅が過ぎ、久喜が過ぎた頃には車内は乗客で埋め尽くされ、いつの間にか彼女は消えていた。
早朝の宇都宮線は静かだ。その日は雪もちらつき、外は鼻先をつねられているかのように空気が冷たい。
僕は10時から始まる映画『虐殺器官』の試写会へと日比谷に向かっていた。電車は上野駅を過ぎて都内に入る。通勤する人々で車内がいっぱいなのに恐ろしく静かだ。咳ひとつ聞こえない。
「◯◯さんて外面ばかり良くてさぁ」なんて後輩に愚痴るサラリーマンも朝は静かに暖機運転中のようだ。
東京駅で山手線に乗り換え、有楽町駅で降りてとぼとぼと歩いて日比谷に向かった。
道中に見えてくる高架下の自販機&喫煙コーナーには、黒いコート姿のサラリーマンたちが互いの目線が交わらないよう空を見つめたりスマホを見ながら各々が静かにタバコを喫んでいた。
東宝の試写室のある日比谷シャンテ前には一時間早く着いた。
シャンテ前は建設中の新日比谷プロジェクトのビルヂングがそびえるようになったことで雰囲気が狭苦しくなった。
とくにすることがないのでシャンテ前に不自然に存在するアラモ砦のようなスターバックスに入った。
「ホットコーヒー Mで」
メニューも見ずに注文をすると
「お客様、今でしたらホットコーヒーはф■$⊇⁂になりますがよろしいですか?」
と何やら聞き返してきたので「それで」と答えておいた。
外が一望できるラウンジ席に座り、渡されたカップに口を付けた。
ホットコーヒーだった。
バッグから文庫本を取り出して本を開いた。「蓮田に未練はないの」と聞いた時からページは進んでいなかった。
アラモ砦からシャンテ前を通り過ぎる人たちを眺めながら「蓮田に未練があったら人生ツライよな」と、僕は思った。