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灯台の歴史《日本編》
日本の灯台のはじまり
日本における灯台の始まりは、664年(天智天皇3年)に壱岐、対馬、筑紫に防人(さきもり)を配して海岸の防備にあたらせた際に、そこで設けた「のろし」が遣唐使船の目標に使われたことから、昼はのろしをあげ、夜間はかがり火を焚いたのがはじまりとされる。そのほか「澪標」と呼ばれる簡易な標識は万葉集に詠まれており古くから利用されていた。
「遠江 引佐細江の水乎都久思吾れを頼めてあさましものを」
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1722年(享保7年)、浦賀で枝葉を残した竹竿の下部に石を詰めた俵を重りとして港内の険礁を示した。また1849年(嘉永2年)に備後国、藤江村の山路右衛門が尾道水道東口、細島付近の水深1mほどのところに石柱を建てて暗礁を標示した。ここにはのちに長太夫灯標が建てられる。
洋式灯台が登場する以前の日本では16世紀末から灯明台と呼ばれる日本独自の航路標識があった。1596年(慶長元年)に浦賀港千代埼に浦賀灯明台が設けられ、1605年(慶長10年)には姫島に石積みのかがり火台が設置されている。
この時代、灯明台は公費で建設し灯税を徴収したものや、私設で建設し後に灯費を集めるものがあった。各地に設けられた灯明台の多くは私設のものであったため、船主が灯費の支払いに苦しむことが起き、明治18年には政府により私設灯台の建設が禁止された。
西洋式灯台の誕生
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1864年(元治元年)、長州藩と英仏蘭米の四か国連合艦隊との間で馬関戦争(四国艦隊下関砲撃事件)が起こり、敗れた長州藩(幕府)は多額の賠償金を支払うことになった。
1866年(慶応2年)に英仏蘭米の四か国は賠償金の減免と引き換えに十二条からなる江戸条約(改税約書)を幕府と締結。十一条「外国交易のため開港する全ての港への航海の安全のために必要な灯台、浮標、立標を整備する」に基づいてイギリス公使ハリー・パークス(1823~85)らは日本沿岸の灯台建設を幕府に要求する。各国公使や外国の海運業などから必要な灯台建設場所を募り、観音埼、剱埼、野島埼、神子元島、樫野埼、潮岬、佐多岬、伊王島の8灯台と横浜本牧、函館の2灯船が設置されることになった。
1867年(慶応3年)にイギリスはフランスとともに兵庫港の早期開港を幕府に迫り、兵庫港への航海の安全確保のため、幕府との間に大阪約定(大阪条約)を結ぶ。これにより江戸条約の8灯台に5基が追加された。
この江戸条約8基、大阪約定(大阪条約)5基の合わせて13灯台を“条約灯台”と呼ぶ。
列強がわざわざこれらの灯台の位置を指定したのは、それまで複雑な地形であるにもかかわらず近代的な航路標識が存在せず、「ダークシー」とまで呼ばれた危険な日本沿岸部に対して、海運と貿易航路の安全確保が重要視されていたためであった。1864年にはイギリスのP&O汽船、翌年にはフランス帝国郵船が上海・横浜航路を開設。1869年には横浜・神戸・函館などに外国船の運航が認められ、関門海峡、瀬戸内海、横浜までの太平洋沿岸の航路上を中心に西洋式灯台の建設がすすめられた。
また日本にとっても殖産興業、近代化のためにも海運の振興は急務であった。1870年(明治3年)設立の工部省の10寮のなかには土木・造船・電信とならんで燈台寮(のちの燈台局)が設けられ、同年から1878年(明治11年)までの工部省予算の20%から45%が灯台の建設に当てられたことからも日本にとっても灯台建設が重要であったことがうかがえる。
江戸条約 8灯台2灯船
観音埼灯台(神奈川県 初点灯1869年)
野島埼灯台(千葉県 初点灯1869年)
樫野埼灯台(和歌山県 現存・現役、1870年)
神子元島灯台(静岡県 現存、1871年)
剱埼灯台(神奈川県 1871年)
伊王島灯台(長崎県 1871年)
佐多岬灯台(鹿児島県 1871年)
潮岬灯台(和歌山県 1873年)
横浜本牧灯船
函館灯船
大阪条約 5灯台
江埼灯台(兵庫県 現存・現役・1871年)
六連島灯台(山口県 現存・現役・1872年)
部埼灯台(福岡県 現存・現役・1872年)
友ヶ島灯台(和歌山県 現存・現役・1872年)
和田岬灯台(兵庫県 現存・廃灯・1872年)
明治維新後、旧幕府から条約を引き継いだ明治政府は1868年(明治元年)、横須賀製鉄所の首長であるフランス人のフランソア・レオンヌ・ヴェルニーに観音埼、野島埼、品川、城ヶ島の灯台の建設に当たらせ、建築課長であったルイ・フェリックス・フロラン(1830~1900)によって日本最初の西洋式灯台となる煉瓦造の観音埼灯台を1869年(明治2年)に完成させた。フロランはその後に野島崎灯台、品川第二砲台、城ヶ島灯台を建設する。
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(1830~1900)
その後、1877年(明治9年)ごろまでの灯台は、イギリス人の鉄道技師リチャード・ヘンリー・ブラントン(1841~1901)によって建設が進められた。
ブラントンは、スコットランドの灯台技術者一族として有名なスティブンソン一家のデイヴィッド(1815~86)とトーマス(1818~87 『宝島』『ジキル博士とハイド氏』のロバート・ルイス・スティブンソンの父)兄弟から約2カ月の速成教育を受け1868年(明治元年)6月に来日。当時若干26歳だった。
以降もブラントンの日本での灯台建設にはスティブンソン一家との連絡が交わされ、図面、資金管理などのサポートが続いた。その影響から日本の灯台はスコットランド式のデザインが多く見られるようになった。
ブラントンは明治9年に帰国するまでに灯台23基、灯船2基、灯竿3基を完成させ、「日本灯台の父」と呼ばれている。
そのほかブラントンは日本初の鉄道敷設に関わり、横浜の日本大通りや横浜公園、吉田橋「鉄(かね)の橋」の設計などを行っている。
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(1841~1901)
日本人による灯台建設へ
ブラントンは他のイギリス人技術者とともに日本人の灯台技師の養成も行った。ブラントンの通訳であった藤倉見達(しょうたつ)(1851~1934)はブラントンから実地で灯台技術を身につけ、1872年(明治5年)からはエディンバラ大学に2年間留学。ブラントン帰国後の灯台建設を引き継ぎ、日本人による灯台建設、運用の指導的技術者となる。1882年(明治15年)日本初のコンクリート造である鞍埼灯台を建設。1885年(明治18年)に工部省灯台局長、翌年3月に逓信省灯台局長を歴任し1891年(明治24年)に退官した。
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(1851~1934)
藤倉とともに灯台建設を指導した石橋絢彦(あやひこ)(1853~1932)は、工部大学土木科を首席で卒業すると1879年(明治12年)にイギリス留学。当時のイングランドの灯台建設の権威であったロンドンのトリニティ・ハウス技師長のジェイムズ・ニコラス・ダグラス(1826~98)から灯台建設の技術を学んだ。1883年(明治16年)に帰国し、灯台局に勤務。出雲日御碕灯台、水ノ子島灯台といった大型灯台の設計・建設を指揮した。
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(1853~1932)
初期の洋式灯台はイギリス、フランスの技術者によって建設されたが、イギリス人のブラントンが関わった灯台の建設場所は多岐にわたり、それぞれがその土地に合わせた工法が選択がされことにより、灯塔には石材、木材、煉瓦、鉄材など様々なものが使用された。光学系は金属反射鏡、光源には単しん火口のオイルランプが用いられた。初期にみられるフランス式では建設をになったヴェルニーが首長であった横須賀製鉄所(造船所)で焼いた煉瓦を使用した。光学系にはフレネル式不動レンズ、光源には多重しん火口オイルランプを用いるなど、国によって特色があった。
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観音埼灯台、野島埼灯台、品川灯台、城ヶ島灯台等の建造に使用された。
日本における洋式灯台初期の灯器は落花生油を燃焼させた光源が使用されたが、石油、灯油を用いる灯器に変わり、最終的には石油蒸発白熱灯が昭和45年まで使用された。明治41年には様々な灯火のリズムを作ることができるアセチレンガス灯器が輸入され、後に国産化して陸上海上問わず電源の得られない小型の灯火標識の主力灯器として長く使用された。その後、次第に電灯に切り替わり昭和52年には姿を消した。
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日本人によって灯台が建設されるようになり大型灯台が沿岸部に多く建設されたが、灯器や光学機器にいては大正10年の大型レンズの国産化まで、長らくイギリスとフランスからの輸入に頼っていた。
また初期の灯台の所管は、外国官、大蔵省、民部省と転々とし、明治3年に工部省に移り、燈台寮が管理することになる。その後明治18年逓信省の所管となり、明治24年に航路標識管理所官制が制定され大正14年に灯台局の所管となった。
第二次世界大戦前とその後の灯台
1880年代の明治中期以降にも日本では多くの灯台が建設されたが、北海道開拓が本格化する明治末期までに北海道および樺太に大型灯台が多く設置された。また日清日露戦争といった帝国主義を背景に九州北岸、西岸や朝鮮半島。戦後には台湾航路に灯台が整備され、関東州(大連、旅順などを中心とした遼東半島の先端にあった日本の植民地)にも逐次灯台が設けられた。また大正12年の関東大震災では明治初期に建てられた多くの灯台が倒壊した。
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昭和に入り軍国化とともに灯台も北洋、南満州、北支航路などの灯台整備が推進されていった。第二次大戦中には米軍機による爆撃、機銃掃射により国内51基の灯台が大破。灯台職員が殉職している。破壊された灯台の復旧は遅れ、昭和25年にようやく終了した。
戦後、航路標識は昭和23年に発足した海上保安庁の所管となり、昭和24年に航路標識法が制定。市町村で管理していた公設標識(灯台の他に灯標や浮標など882基)が海上保安庁に移された。昭和28年には官署名が灯台から航路標識事務所に改められ、全国254ヵ所に事務所が置かれた。工事量の増加に伴う工費の節約と工期短縮のため、従来用いられていた大型・中型灯台の等級レンズと水銀槽式(初期には|轉轆《てんろく》式)回転機械に代わるものとして軽量小型で高性能の鏡胴式回転灯器をアメリカからの輸入品をモデルとして製作され、LB型灯器と名づけられた。
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また、それまで灯台は敷地内や周辺に官舎を設け、灯台職員が常駐し管轄する灯台の保守管理を行っていた。職員は灯台守とも呼ばれ、家族とともに住むこともあった。
大型灯台の自動化の研究は早くから着手されており、昭和26年には豊後水道の水ノ子島灯台に初めて自動制御式自家発電装置が設置された。現在は大型、中型もほとんどが無人で運用されている。長崎県五島市の男女群島の女島にある女島灯台は最後の有人灯台であったが、2006年(平成18年)12月5日に無人化され国内の有人灯台は消滅した。灯台守の家族の物語として木下惠介監督による映画『喜びも悲しみも幾歳月』(1957)『新・喜びも悲しみも幾歳月』(1986年)がある。
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『喜びも悲しみも幾歳月』(1957)
現 在
昭和30年代半ばごろからは小型灯台、港湾、漁港の整備に合わせた防波堤灯台、灯標、灯浮標などが多く設置されていった。その後、太陽電池、波力発電などに切り替えられていき、昭和53年には全てが電化された。
現在、日本の航路標識は5153基。うち灯台・灯標は3581基におよぶ。なかでも明治期に建てられた灯台の約120基のうち、約半数の66基が現在も現存、現役である。
灯台職員によって100年余りの間保守・メンテナンスが続けられたという事実など明治期の灯台は日本において貴重な近代遺産となっている。また16基の登れる参観灯台では灯台の歴史、航路標識を学ぶことができるようになっている。
参考資料
『灯台 -海上標識と信号-』成山堂書店
『明治期灯台の保全』財団法人 日本航路標識協会
『灯台から考える海の近代』京都大学学術出版会
『Lighthouse すくっと明治の灯台64基1870-1912』バナナブックス
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