ラーメンズ『TOWER』におけるラストシーンをどう解釈するか?
1.はじめに
以前、『TOWER』について書いたことがあります。
この文章は、それを改稿したり、書き直したり、書き足したりしたものです。
書き足している期間は、「ラのつくイラスト発表会」の規約にしたがって、
発表されてからの作業です。
以前、『TOWER』について書いたものを知っている方(ほとんどいないと思いますが)には、
少しだけ、読みやすくなっていると感じてもらえればいいなと思います。
時間がなくて、全ての文章に手を加えられた、というわけではありませんが。
あ、内容的には、結構似たようなことだったりするので、読まなくてもOKです。
逆に、前回のものを知らない方には、なにかしらの刺激を与えられれば、幸いです。
といっても、この論考、長いので、多くの人は読まないのではないだろうか、
なんてことも思ってます。
なんで長いか、と言いますと
この『TOWER』は、ひじょうに解釈が面倒くさいというか、やりがいがあるというか、
付き合いづらいというか、味があるというか、そんな作品だと思います。
では、なぜそんな風に思うのか。
ちょろちょろと分析しながら、進めていきたいと思います。
「笑いはどのようにして生じるのか」。
このことについては、哲学的に、多少議論がされている領域だったりする。
その界隈において、たびたび用いられる概念を一つ提出したい。
それが、「転化」という概念。
これは、「笑い」を生じさせる手法の一つとして、哲学の界隈では基礎的なものとして認知されている。
小林賢太郎が、こうした哲学的議論を知っているかどうかは、定かではない。
ただ、『TOWER』を、ラーメンズのコントを分析するにあたって、この「転化」という概念は、ひじょうに重要。
どんな概念なのか、については、カントの論がわかりやすい。
カントは、「予期への無への転化」が笑いを起こすと言った。
簡単に言ってしまえば、「予想外」なことが起きると笑いが起きる。
もう少し丁寧に言うなら、「無邪気」な予想外なこと。
これは、実際に筆者が体験したことなのですが、
ある時、いとこと話していて、「ラム酒」の話しになりました。
いとこ「え、ラム酒って、羊(ラム)のお酒じゃないの」
その場にいた全員が笑いました。
それは、まさしく、その場で共有されている常識が、無知によって「転化」された、ということ。
どの程度「とんだこと」をいうのか、によっても、笑いの質はかわります。
ただ、こうした無邪気さ、予想外さ、が、時として笑いには重要な要素となりえる、ということです。
(ちなみにラム酒は羊のラムからではなく、サトウキビからできています。この「ラム」の語源は諸説ありますが、少なくとも羊ではありません。そもそもスペルが違います。)
さて、すごく雑ではありますが、笑いにおける「転化」について、
説明してきました。
次からは、『TOWER』に登場するコントの分析を行っていきますが、
すこし、「説明的」というよりは、「批評的」なモードになっていくかもしれません。
2.「シャンパンタワーとあやとりとロールケーキ」と「名は体をあらわす」における転化
「シャンパンタワーとあやとりとロールケーキ」では一見、
あやとりをしながら仕事をサボっているかのように見える片桐が「非常識人」として表象されている。
それが、コントが進んでいくと、小林のほうが非常識になっていく、という仕組み。
「あやとり」という遊びでは、小林の「無知さ」によって笑いが起きる、という構造。
「あやとりではありえない!」と動きを取り入れ、「常識的」なあやとり遊びをしたい片桐を困惑させる。
ここで生じている「転化」は多層的で、3つに分類できる。
1:常識の転化
2:役割の転化
3:笑われる者の転化
1に関しては、簡単に言ってしまえば、
自分にない常識、もしくは一般的な常識を外すことによって、笑いを生じさせるテクニック。
これは、すでに説明したとおり。
2も単純で、当初ツッコミ役だったはずの小林が、ボケ役に回るということ。
役割が入れ替わる、という転化。
3についても、ほとんど「2」と同じだったりする
仕事の合間に、仕事に必要な物をあやとりで表現して「非常識」を演じていた片桐は、
「仕事場の常識」という範囲内において、笑われる存在として、描かれている。
さて、「あやとり」という遊びが開始されると、「あやとりという場の常識」が導入されて、
その「あやとりの常識」を知らない小林は、笑われる対象となる。
ここで重要なのは、片桐が「そうだよなあ」と言い、相手を否定しない、ということ。
相手の常識=「あやとりを知らないということ」に合わせている。
さらに、小林は何度いっても、同じ「ミス」を繰り返す。
何度も繰り返し同じことを伝えなければならないことで、片桐は徐々に疲弊する、というか、
すこしてんぱる。
その、「てんぱり」がまた笑いの要素となって、
今度は常識的な片桐のほうが、観客によって「笑われる存在」となる。
こういう、「転化」や「笑われる存在」が行き来する、というのは、
実は小林賢太郎がよくやる手法。
「転化」については、前回の「ラーメンズ『TEXT』における「銀河鉄道の夜のような夜」に関するいくつかの考察」で、
若干触れたので、ここでは他の公演やコントを持ち出して、深く考察することは避ける。
さて、その一方で「笑われる存在の行き来」に関しては、
これまた別の公演からになるが、「バニーボーイ」などが、わかりやすい例としてあげることができる。
これでも、最初は会話が噛み合わないバニーボーイが笑われる側としている、
けど、時間がたつにつれて、そのバニーボーイに「疲れてくる片桐」に対しても笑いが起こるようになる。
純真さの行き違い。
本来であれば、純真な、もしくは非常識なキャラクターは一人でいいはずで、
一般的な漫才を例にだすと、
ボケという「非常識」に対して、「常識的」なツッコミがいる、という構図。
ボケはある種、自らの非常識を信じきって、そういう意味では「純真」。
ツッコミは常識に囚われているという点において、純真ではない。
だけど、我々もまた、なにかしらの「常識」にとらわれてみている。
だから、笑える。その常識から外してくれるから。
お互いに常識に染まりきっていない者同士=ボケとボケは本来であればカオスになる。
(もちろん、そうしたカオスを生み出す漫才や、ボケとツッコミが入れ替わるというかたちのWボケなどは存在する)。
だけど、それぞれ違う点において常識と非常識を混在させることによって秩序立たせている。
この構図は、次の「名は体をあらわす」でも引き継がれている。
「でもそれは、語感というより、言い方なんじゃない?」という一言から、片桐は一時的に(いわゆる)ツッコミにまわる。
「俺も鍛えてくれないか」から、「クリムゾンメサイア」の話が膨らみはじめ、片桐の「一人遊び」のようなものがはじまる。
そこで小林はツッコミながらも、片桐に付き合わされ、驚き、振り回される。
常識人として「関わりたくない」一人遊び、片桐ワールドに巻き込まれることそれ自体に対して、観客からは笑いが起こる。
これは、先に挙げた「バニーボーイ」と同様の構図。
「名は体をあらわす」にはもう一つ、重要な要素がある。
「名は体をあらわす」とは言うものの、それはあくまでも「音声」の名であるということ。
文ではなく、「音」。
片桐の「クリムゾンメサイア!」の声は(ラーメンズのコントにしては珍しく)
エコーがかかっていて、反響する、ということからもわかる。
オングの『声の文化と文字の文化』を参照するまでもなく、「文字」では「体」をあらわせないものが多々ある。
だからこそ、「でもそれは、語感というより、言い方なんじゃない?」というツッコミが成り立つ。
「薔薇」から漂うその文字の鋭利さは、声ではあらわしづらい。
むしろ声で発生する「バラ」は、時に柔らかく(「シブヤ」みたいに発声したり)
時に重厚感あるかのように発すること(「ガトーショコラ」みたいな発声)も可能。
このように、「名は体をあらわす」は、二つの重要な要素がある、と言える。
それは、一つに「あやとり」から続く「転化」を引き継ぎ、それを公演全体のテーマと思わせるという点。
第二に、「音」の重要性。
とても面倒くさいことに(それこそがこの公演の魅力でもあるのだが)「TOWER」はあまりにも多層的で、分析がむずかしい。
批評も難しい。
なので、とりあえず、「転化」と「音」だけを、ここでは覚えておいてほしいな、と思います。
3 .問題作「ハイウェスト」
「ハイウェスト」。その基本構造はいわゆる「テンドン」で、それだけではなんら珍しいものではない、と思う。
「ハイウェスト」では、延々と続くクイズのような形式のなかで、答えは(一部を除いて)明確な「ハイウェスト」。
小林の姿は基本的にはなく、彼の声だけが会場に響き渡る。
ひっかけ問題のような「ハイスクール」や、「発声」の緩急を用いて笑いを誘う、という構図。
ところで、この「声」は、この「クイズ」は誰に向けたものなのでしょう。
「第何問」としていることからも、クイズらしい構造ではあるけれど、
本来いるべき回答者は不在。
回答は、暗黙のうちに示唆されている「ハイウェスト」であって、それらを観客は「答えるまでもなく」承知している。
答えが提示されているクイズも、暗黙の了解のクイズも、ふつうではありえない。
「ハイウェスト」の格好もまた、常識ではありえないが、だからこそ、そのありえなさが答えを明示し、暗黙の了解を示している。
4.「やめさせないと」
このコントでも、役割は、めまぐるしく、転化する。
「鶴ちゃん」は、序盤、片桐によって演じられる。
中盤、小林が鶴ちゃんに変装し、さらにその後「小林が扮する鶴ちゃん」を片桐が演じる。
ひじょうにややこしい構図。
転化、変化を繰り返しながら、「負の連鎖」によって「偽物」、「コスプレ集団」による「2軍」によってキャンプが行われる。
ここでは、あえて、「やめさせないと」について深くは触れない。
ただ、そのラストシーンは彼らの役柄を象徴する。
そのラストシーンだけ、取り上げてみたい。
タワーマニアの彼らは「日本電波塔」、通称「東京タワー」が見えるマンションに住んでいる。
ということは、ある程度、東京タワーに近いマンションに暮らしている、と考えられる。
東京タワーのライトの消灯と同時に、鶴ちゃん(片桐)は就寝する。
さて、このコントは、小林が「スターバックス」の赤いランプの下で、「キャラメルマキアート」を待って終わる。
なぜそれが「オチ」になるのか。
わざわざ、そんなシーンを入れる必要はなく、二人とも就寝する、という終わりでもいいんじゃないか、と、疑問を持ったりもする。
そのシーンを入れた理由は、
自意識過剰がゆえにスターバックスには入れなかった彼が、変装を通じて入れるようになったという
「成長物語」を意味する、ということでは「ない」。
このコントは「赤いランプの下で待ってるからー!!」というセリフによって終わる。
そのことを考えると、
「赤いランプ」は、東京タワーなのではないか、と「象徴的に」考えることができるのではないか。
そのようにして考えるなら、待っているものは、「キャラメルマキアート」ではなく、
ほかでもない「鶴ちゃん」ということになる。
5.「五重塔」
この作品でまず驚くべきは、「影の演出」。
左右どちらにも、「五重塔」が見えるように影の作り方が、
照明の置き方が、工夫されている。
また、舞台上の舞台より一段低い位置に小林が時に位置することで、
より五重の塔を高くして見せる。
(このあたりは、「採集」でも採用されている。)
さて、内容的には、どうなっているか。
問題としたいのは、「たった一箇所、見れない場所がある」というくだり。
回答は、「五重の塔の中」で、正解は「五重の塔から遠くて建物が重なって妨げになってちょうどその場所がそう」だった。
哲学的なことを、あまり重ねると、難しくなってしまうので、すこし簡略化しながら説明していきたい。
最初に、キーワードをいくつか提示する。
「らせん」とか、「脳内(頭の片隅)」とか。
螺旋階段を登って、カメ彦(ガブリエル)は、登っていく。
五重の塔の体内を、会話をしながら、「頭の片隅(頂上)」へむけて。
タワーを螺旋状に登る、ということは、
まるでヘーゲルの哲学、弁証法のようでもある。
ヘーゲルは、一つの主張に対して、反対する主張をもってきて、
その二つを統合して、それを繰り返すことで「真理」へと向かおうとした。
これを、ヘーゲルは、「テーゼ」に対する「アンチテーゼ」をたて、「ジンテーゼ」へむかう、というように説明する。
そのようにして、「理性」=「脳内」へと、
カメ彦は向かう。
途中、アンチテーゼとはいわないまでも、ある程度の紆余曲折を描きながら。
「五重塔」は、『TOWER』の象徴でもあるし、
高いものの象徴でもあるし、
そうした「高さ」が脳というものへとリンクしている。
内的な自分と外的な自分、
もしくは、内的な自分と、内的に入り込んだなにか
との対話と通じて、
高みへと登る、という構成と象徴。
そして、二人は会話をする。
「五重塔」の体内で。
それは、一個人が、心的内側において対話をするように。
重なりあって、想像して、
自らの意見に対して、反論を自分でして、を繰り返して。
まるで脚本をつくるかのようにして。
6.「タワーズ1」〜「タワーズ2」
公演名、「TOWER」の名の下に行われ、はじめと最後をかざるもっとも重要なコント。
それが、「タワーズ1」、と「タワーズ2」。この二つのコントは続いたものとして考えることができるだろう。
謎の天の「声」からされる指令をこなしていく二人。
「カマッチョベンガー」、「セバルコス」など、「1」では何かわからなかったものが、公演全体を通して判明し、
「2」ではその指令にスムーズに応えることができている。
だが、彼らは一体、どのようにして、それらの未知の言葉ー、言い換えれば人の「頭のなかにしか存在しないもの」を知ったのか。
もちろん、観客は知っている。
なぜなら公演を見ているから。
しかし、彼らは公演を見たのか。
なぜ、どこで、どうやって?彼らはあの空間から抜け出すことができたのか。
いや、そうではなく、妄想を共有したのだろうか。
それとも、演じられきたキャラクターたち本人なのだろうか。
いや、この線はもっとも薄い。
むしろ、ここでは、小林や片桐という役者としての「同一人物」性に、着目したい。
小林や片桐が演じてきたキャラクターを、再度「演じる」というメタ的な要素はある。
小林は、「お前の頭のなかにしか存在しないものは(たとえ話の)材料にはならないんだ」と、言う。
そうした、「頭のなかにしか存在しない」概念やキャラクターを、約1時間という時間をかけて公演内で説明してきた。
彼らが演じてきた「キャラクターたち」を、「タワーズ」の二人は、実際にはみていないはずである。
観てきたのは、観客のみであるから。
観客と、演じ手の彼らが知っているだけの、そのメタ的な示唆は、
演じ手とキャラクターという二分法の解体ともいえる。
ほかのコントでは、「演じられているキャラクター」と演じている「役者」の二つはわけられたもの、として提示されている。
だが、「タワーズ」においては、そうではない。
演じられているキャラクターである、同時に、演じられているキャラクターは小林/片桐なのである。
役者や脚本家、ではなく、その公演で演じられてきたキャラクターとは異なる、
観客的な側面すらを含んで、二人は立っている。
キャラクターを演じる小林ではない。
キャラクターでもあり小林でもある。
もしくは演じている片桐ではなく、キャラクターでも片桐でもある舞台上の人物。
それがタワーズの登場人物たち。
そして、我々がみせられた、それまでの舞台はまさしく、「お前(小林)の頭のなかにしか存在しないもの」たちであった。
だからこそ、
我々は「たとえ話」にすら、もう使える。
それらはタワーズの声が示すように、「だんだんだんだん」我々に浸透したものにほかならない。
このほかにも、「TOWER」と「タワー」に関しては、幾重にも考えるべきことがある。たとえば、登場人物の名前について。
たとえば、「タワーズ」の「ズ」は何をあらわすのか。
名前について、考えてみよう。
「TOWER」に登場する人物たちへの命名は、一見規則性がないようにみえる。
タワーズ1,2ではそれぞれ無名。
シャンパンタワーとあやとりとロールケーキでも無名。
名は体を表すでは、テーマが「名」でありながら、固有名詞は多く出るものの、登場人物には名前が与えられていない。
しかし、ハイウェストでは片桐が「よしっちょ」、「やめさせないと」では「鶴ちゃん」(小林、片桐共に演じることになる)、
五重塔では、小林、片桐ともに不安定な名前が与えられる。
小林は、カメ彦であり、ガブリエル。
片桐は、通称は五重の塔であっても、由緒はなく、
また実際にはそうでなくても人々から信じられているような由緒も途中で放棄される。
無名から、片方のみ有名へ。
意味のない固有名詞、響だけの言葉。
演じる役が入れ替わることによる、名前の不安定性。
本当の名前がわからず、内実ではなく見た目により規定されるイメージ。
さて、「s」の所在についてはどうか。
「タワーズ」は、英語表記ではおそらく「TOWERS」か、「Towers」か、「towers」となる。
何が違うんだ、と言われたら、それまでではある。
が、公演が「TOWER」と固有名詞であることを示すかのように
大文字で記されているのに対し、ここではカタカナで表現されている。
つまり、「towers」などの可能性がある。
そして、「TOWER」とは異なり「s」がつくことの意味。
一つは、複数形としての「s」。しかし、何の複数形なのだろう。1、2ということの複数形。
もしくは、二つのタワーという意味での複数形。
または、タワー以外を含めたすべてのコントすらも内包された複数形。
もう一つは、動詞としての、つまり三人称単数現在動詞(たとえば、HeとかSheの後の現在形同士に「s」をつける)
としての「towers」。
その意味は、塔ではなく、「抜きん出ている」、もしくは「そびえている」となる。
なるほど、彼らが「抜きん出ている」ということ、そしてこのコントが「抜きん出ている」ということの示唆、なのだろうか。
彼らの誇示は、まさにそびえ立つ。
それがゆえに、彼らはこのコントを超えなければならない、のかもしれない。
さて、いよいよ、「タワーズ2」の一連のラストシーンについて、考えていきたい。
このコントの終わり方は実に示唆的で、美しくも儚いようにうつる。
「だんだんだんだん」というお題に対して、音を奏で始める小林。
それに伴って公演に登場した個性的なキャラクターたちが階段を上がっていく。
まさしく、タワーを登るかのように。
「五重塔」で登ったように、螺旋状に、思弁的弁証法のように。
「だんだんだんだん」キャラクターや小林の頭のなかを理解させることは同時に、
演者も「だんだん」とできるようになる過程をも表しているようにすらうつる。
小林が奏でるピアノの音は、ピアノがなくなっても奏でられ続ける。
ピアノがない場所でさえもその音は響く、音楽は鳴り続ける。
しかし片桐は響かすことができない。
小林が自らの手のひらに息を吹きかけ、音を飛ばす。
片桐がそれを「パンッ!」という音とともに捉え、音は手のひらに閉じ込められ鳴り止む。
手のひらをひらけば、最後の音が一瞬光を放つかのように飛ぶ。
そして終演。
小林のみが音を奏でている、との印象を与える。
たしかに、片桐は「ピアノの音」は鳴らせていない。
が、叩く音、最後の破裂音もまた音である。
「タワーズ1」において「だんだんだんだん」というお題がでたとき、片桐もまた箱をぶつけあうことによって、「音」を出している。つまり、小林とは異なるが音を出していることには違いない。
小林と異なる音を出しているということは、逆説的にいえば、小林はその打撃音は出せていないのである。
ならば、こうも捉えられるだろう。それはありきたりな答え。
異なる音を出せるからこその「s」と。
7.公演の伏線と筆者の妄想
さあ、いよいよ伏線を回収しよう。
筆者は、この公演の重要なテーマは、二つあると考えている。
それは、「転化」と「音」。
とくに、「音」は反響、音声など、ひじょうに広い概念として用いられる。
「名は体をあらわす」において、片桐の「クリムゾンメサイア!」というセリフには「エコー」がかかっている。
ラーメンズのコントにしては珍しく、だ。
「エコー」は、神としてギリシャ神話にも登場する(『変身物語』参照)。
ナルキッソス(ナルシストの語源、由来とされる)がエコーに恋をするという神話も残っている。
さすがに、エコー(反響する声の発生主である片桐)がナルキッソス(小林)に恋、なんていうのは考えすぎ、だろうか。
ちなみに、エコーは呪い(?)によって同じ言葉しか話せない、という設定も持ち合わせる。
「同じ言葉しか話さない」コントや、「木霊=エコー」のように、小林の発した言葉に対して、
同じ言葉を片桐も発し続けるコント等における、片桐の役回り、とも考えられる。
ナルキッソスとエコーついでにもう一つ。
ナルキッソスは、水面に映った自分自身を「自分と気付かぬまま」、そのあまりの美しさに惚れる。
そして、気付かぬまま池に手を伸ばし、触れようとし、池に落ちて最期を迎える。
死間際になって、はじめて池に映った美しい美少年が自分であると気づいて。
ここで問題として取り上げたいのは、「水面」の特性である。それは反射。
たとえば、「ハイウェストによるマイベスト」でCDを取り出す。
そのCDは裏表が同じ、反射しているCD。
表裏一体のCD。
水辺の表裏一体性、反射するという特性から、CDがナルキッソスにおける水辺とし、
その水辺を、自分自身を反射し映し出す鏡として片桐が取り出す、なんて考えるとまあ、ロマンチックではある。
このほかにも、「やめさせないと」では、「鏡、鏡」といって鏡を探す。
自らの姿、変装した姿を確認するために。
整理しよう。
「名は体をあらわす」では、片桐がエコーだった。
それが、「ハイウェスト」になるとどうか。
小林の声だけが会場には響き渡る。
ゆえに、小林が「エコー」になる。
そして、「ハイウェスト」では片桐がCDを取り出す。
CDの反射性が水面として捉えるならば、エコーとナルキッソスの関係が「転化」している。
つまり、前のコントでは片桐がエコー、小林がナルキッソスの役割だったのに対して、
エコーとナルキッソスの役割の逆転現象おきる。
自分の存在の「面白さ」に「気付かないまま」立ち続ける片桐。
声のみを出し続ける小林。
ゆえに、「鏡」が必要となる。
なぜなら、自らを確認するため。
自分が何者かを示すために。
そして自分を知る。
思い起こせば、「タワーズ1」では、鏡なしで、小林は髪をセットする。
そこには鏡像が不在であるがゆえに、自らの姿を確認できない。
「やめさせないと」で、「鏡、鏡」と鏡を探す鶴ちゃんを演じるのは、片桐であり小林。
どちらも鏡が必要な存在として描かれている。
「やめさせないと」のセリフを思い出して欲しい。
「みんな、俺たちみたいに、同じ趣味の友達と、ルームシェアしてるってことが、わかったんだ」
全員が二人で共同生活をしている、ということ。
まるでそれは、コンビを示しているかのようでもある。
狭く考えれば、「僕たちは、そういうんじゃないじゃん」・「まあ、いわんとしていることは、わかる」
という一連の会話は、
タワーマニアで社交性がないことを示すのみに過ぎない。
だが、それを広く捉えるならば、「世間一般」との相違、「当たり前」から離れた存在、
つまり「(お前もなかなか)前衛的だな」いう存在。まるで彼らの評価のように。
「高いところが大好きなわりには、視野が狭かった、っていうか」の「高いところ」というのも、必ずしもタワーではない。
舞台という高みから見る景色であると同時に、舞台自体に固執する視野の狭さ。
ゆえに、「たまには同じ趣味のと、一晩明かそう、ってことになって」小林も、片桐も活動の幅は広がって行く。
自律と自立の促進、提示。
前衛であるがゆえに、「いつものアレ」の期待感を恐れ、時としてそのネタの豊富さから、「いつものアレ」すら見失う。
さらに、この会話で畳み掛ける。
「キャンプに行かせてあげられなくてごめん」
「え、俺キャンプいったよ」
(中略)
「つるちゃんが、いなくなっちゃうじゃないかと思ってこわかったんだよ(中略)楽しかったんだよー!」
という会話。
もしくは
「怒ってないんですか」
「楽しくキャンプやって、友達できたんだろ」
この二つの会話が示すもの。
それは、別の場所で活動するときに相方を連れて行けないという葛藤と同時に、
自分がそうした別の場所で活動しているときに相方もまた別の場所で活動しているという紛れもない自立性。
違和感を感じつつも、別の場所で「友達」をつくり、それを「よい」と認める/認めたいという心理。
「変装をしないでそのまま会」いに行くこと、演じない自分自身をさらけ出す可能性を片桐は小林に勧める。
そして「俺たちはこれからかわるんだ」という、開かれた可能性。
「タワーズ1」では片桐が驚いてコントがはじまる。
そして、このコントの中盤でも、片桐は小林に驚き続ける。
だが、「タワー2」のオチでは、小林が驚き終わる。つまり、ここに彼らの逆転現象がある。
そして「音」。
小林が音を奏でている、ということは、一見すると、エコー(=音)である片桐を小林が奏で、操っているかのように見える。
たしかに、当初片桐は音を操ることはできない。
なぜならば片桐は操られる存在だから。
ラストシーン、小林は奏で終わりを示すかのように、音に息を吹きかける。
音は飛ぶ。
そこまでは、小林の思惑通り。
しかし、それに対して小林の意図せぬ動きと結果が伴う。
ここで小林が驚く。その驚きは、片桐自身が音を捕まえたということ。
換言すれば、片桐自身(=エコー)が、音(=エコー)を、捕まえたということ。
つまり片桐が自分自身を捕まえたということにはならないか。
そして同時に、小林にとって片桐は意図せぬ動きと結果を生じさせる存在として描かれている、
と考えることもできる、かもしれない。
それと、同時に、それは彼らの補完性でもある。どちらがどちらにも驚くこと。
小林が脚本を書き、動かせることはできたとしても、
時にその脚本は片桐によって(無意識のうちに)「書かされている」ものでもあること。
片桐の動きに小林が驚くことが、ときに笑いになること。
片桐が小林の考えに驚くということ。
互いにエコーでありながらナルキッソス。
そして、以上のことが示すこと。
「ジリツ」。「立ち」そびえるTOWER。
ぐるぐる、旋回する塔。奏でられる旋律。自らの「名」を求める旅。
すべてを含んだ自律/立。
螺旋状へ、お互いを否定したり、肯定したり、驚きながらも登っていくこと。
彼らは、最後の瞬間、互いを認め合い、互いのないものを認め、鏡ではなく瞳に映る姿と、相手に映る姿でもって、自らを確認した。そして、彼らは互いに自律/立したうえで、上がり続ける、という意思表明。
「タワーマニア」のように、
高みを目指して。ジンテーゼを目指して。
そのため「ジリツ」だとするならば
今の彼らがそれぞれ別の道を歩んでいるというのもまた、
共に確認しあうため、
高みを螺旋状のようにして目指す過程の一つにすぎない。
彼らが「タワーマニア」であり、
何回もその高みを目指すとするならば、
「世界中の高み」を目指すとするならば
「てっぺんまでずびずばっと」登り続けたとしても
そこに舞台という高みがあり続ける限り
ラーメンズとしての「最終公演」はありえない。
********
初出:2017年5月(2017年8月改稿)
当初は、ひとりの友人からひょんなことをきっかけにリクエストをもらって、わりとがっつりと考えて書いたものでした。
後日、この文章をお酒のつまみにしながら居酒屋でアレコレ話したのを覚えています。
で、その3ヶ月後に「ラのつくイラスト発表会」で『TOWER』を取り上げると知って、さすがにそんなにポンポン違うアイディアは出ないので、改稿して投稿した、といった感じです。
さてさて、内容のほうなのですが、これ、かなりひねくれています。
第一のひねくれポイントは、結論です。
『TOWER』のラストシーンを解釈するにあたって、多くの人がわりとネガティヴな発想をする、あるいはするだろう、ということは容易に想定できました。
ただ、同じような結論とか、ありふれた結論にはしたくない、と。
どうにかしてポジティヴに理解できないかな、と考えました。
で、第二のひねくれポイントは、その方法です。
すごく、遠回りをしている。
ただ、ピアノの音ではなく「破裂音」に着目すること、そして音に着目しながら「エコー」と「ナルキッソス」をもってくるのは、おそらく誰もしない、していないだろうと考えました。
ただ、ちょっと難しい部分も多いです。
「エコー」と「ナルキッソス」もそうですし、転化の概念もそうです。
だけど、最初はひとりの友人にだけ見せるつもりでしたから、もうこのあたりは「質問されたら細かく解説しよう」くらいに考えていました。
8月の時点で、どんな風に改稿したかはあまり覚えていないけれど、たしか少しだけ読みやすいようにとか、わかりやすいように(そうなっているかはわからないけれど)した覚えはあります。
ちょっと足りない部分や強調したい部分を書き加えたり。
あとはちょっとした工夫。
たとえば、「五重塔」がちゃんと「5」になるようにとか、章の数を『TOWER』の作品数とあわせる、とか。
この文章を書いた2年ほどあとに、(「ラのつくいろいろ発表会」で)ぼくはまた『TOWER』について書いているのだけれど(そちらは後日公開します)、それとは別に、じつは『TOWER』について書いているもの、お蔵入りしているもの、書きかけのものがあります。
その論考は、この文章とちょっと関わるところがあって、けれど重ならないところもあるような、そんな文章です。
どちらもジリツした文章で互いに…なんて言ったら、すこしきれいすぎるでしょうか。
ただ、お蔵入り原稿は公開するのか、しないのか、今の時点ではわからないけど、もしも機会がありましたら、またいつか。