ラーメンズ『TEXT』における「銀河鉄道の夜のような夜」に関するいくつかの考察

まえがき
 
この文章は、ラーメンズの公演『TEXT』を、とりわけ、「銀河鉄道の夜のような夜」に関する考察をするためのものです。
「考察」ではあるために、「銀河鉄道の夜のような夜」を賛美するためのもの、ではありません。
むしろ、筆者が、どのようにこのコントを理解しているか、ということや、
このコントにおけるいくつかの考察点を提示するもの、と思っていただければ、幸いです。
また、コント自体はもちろんのこと、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』のネタバレも含みます。
どのくらいの方々が、この作品のことを知っているのか、わかりません。が、ご容赦いただけましたら、幸いです。
 
さらには、これも当たり前のことなのですが、
解釈をしたうえで、その解釈が気に入らない、という人は結構いるかもしれません。
そうしたことを理解していただいたうえで、お読みになっていただけるのであれば、幸いです。
けっこう、へびーなんです。
 
あ、最後にひとつだけ。
今回の論考、考察に関しては、Twitterで展開した内容を含みます。
Twitterで展開した内容や期間は一応「ラのつくイラスト発表会」においてテーマが発表されてからですので、ご安心ください。

また、Twitter上にて、その考えを発するきっかけをくださった方に、深く感謝申し上げます(名前をお出しして良いのか、わからないので、匿名でごめんなさい/確認すればよいのですがちょっと恥ずかしい)。

ぼーっとしていて考えていなかったことが、一つのつぶやきからインスピレーションを受けて、発展して、考えが進む、ということは、ひじょうに、刺激的でした。まことにありがとうございます。
 
それでは、本論、いってみましょう。
 


宮沢賢治『銀河鉄道の夜』について
 
宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』は、いまなお語り継がれるほどに、人気のある作品である。
ラーメンズのコントである、「銀河鉄道の夜のような夜」をはじめとして、パロディ作品も多く存在する。
この作品は、なぜ我々を魅了してやまないのか。
そのことについて、たとえば、美しさという観点を導入して論じるだけでも、おそらく一つの論文や、批評が完成してしまうだろう。
なので、ここではそうしたことはしない。
ただ、2つのポイントを指し示すだけにとどめたい。

まず、『銀河鉄道の夜』が遺作である、ということ。
次に、色々なヴァージョンがある、ということ。
そして、この両者は関わりあっている。このことについて、関口安義は以下のように述べている。
 
 宮沢賢治の代表作とされる「銀河鉄道の夜」は、テクスト決定の困難な作品となっている。一九二四(大正一三)年夏から一九三三(昭和八)年の没年まで、ほぼ十年間、繰り返し改稿された。第一次稿から第四次稿までが現存し、それぞれが存在を主張している。作者生前未発表、しかも未完成作品ゆえ、決定稿は決め難い。強いて言うなら、その折々の定稿が未発表で残ったのである。[1]
 
つまり、遺作であるがゆえに、この作品はその決定稿が読者や編集者に委ねられている。
また、そうした複数のヴァージョン、というのは内容の解釈にまで及んでいる。
どういうことかといえば、『銀河鉄道の夜』のラストは、未完結とも、完結とも言えるようなものになっている。
この原稿は作者の死後に発見され出版されたために、その終わりについて確認するすべもない。
ゆえに、この作品の終わりは、あるのか、ないのか、そしてその真意については、
(もちろん他の作品にも解釈の余地は多様にあるが)議論が盛んに行われている。
 
さて、少し、『銀河鉄道の夜』のラストに触れてみよう。
ジョバンニとカムパネルラ、という二人の登場人物が、美しい宇宙を旅行したのち、
ジョバンニは目がさめる。それらの旅行が夢だとさとり、
周囲の状況からカムパネルラが川に落ち、亡くなったことに気づく。
これが、『銀河鉄道の夜』のラストであり、議論の的になる部分でもある。
 
ラストが未明であること、様々な解釈ができるということ。
それは、「銀河鉄道の夜のような夜」にも通じるものである。
とりあえず、概要、概説的に、『銀河鉄道の夜』について、触れてきた。
それではいよいよ、「銀河鉄道の夜のような夜」の解釈へと、進もう。
 

「銀河鉄道の夜のような夜」の再解釈
 
まず、「銀河鉄道の夜のような夜」に登場する、二人の名前について、すこし触れたい。
「銀河鉄道の夜のような夜」には、二人、重要な名前がつけられた人物が登場する。
それが、「常磐」と「金村」。
(これは以前、Twitterにも投稿したことではあるのですが)
おそらく、常磐は、ジョウバンとも読めることから、ジョバンニをさす、と思われる(トキワ=常磐=ジョウバン=ジョウバンニ=ジョバンニ)。
また、金村は、カムパネルラの意味がイタリア語で「鐘」であることから、鐘が金に変化したこと、
カムパネルラの最後の二音、「ルラ」の母音が「村」と重なる、ことから名付けられた、と思われる。
 
つまり、常磐=ジョバンニ、金村=カムパネルラ、という構図がある、ということを、まずは指し示したい。
 
そのうえで、内容面に入っていくこととする。
ただし、多くの人が気づいているように、伏線に回収について、などについては、あえて論じない。
むしろ、このコントにおいて、いくつかの(少なくとも筆者にとって)浮いている(と感じられる)セリフについて考えてみたい。
 
それが、このあたり。
 
常磐のセリフ、「僕はずっと誰かと一緒だった気がする」。
金村のセリフ、「俺本当はここにいないわ」。
 
金村は、このセリフを残して、立ち去っていく。
おそらくは、常磐とは異なる方向へと。
どこに彼はいるのか。
原作通りに解釈すれば、金村は死んでいる可能性が高い(原作でも、死んでいるかどうかは、不透明な部分は残るが)。
しかし、電車に乗り続けるのは常磐であり、電車から立ち去るのは金村である。
 
これが意味することは、現実に気づいたのは金村の側であるということ。
原作では、夢であることに気づき、現実に戻るのは、ジョバンニなのに、である。
 
原作を参照しよう[3]。
「ジョバンニがこう云いながらふりかえって見ましたらそのいままでカムパネルラのすわっていた席にもうカムパネルラの形は見えずただ黒いびろうどばかりひかっていました。ジョバンニはまるでてっぽうだまのように立ちあがりました。そしてたれにも聞えないように窓の外へからだを乗り出して力いっぱいはげしく胸をうって叫びそれからもうのどいっぱい泣きだしました。もうそこらが一ぺんにまっくらになったように思いました。」
 
そう、やはり、現実に気づくのはジョバンニのほうであって
カムパネルラは、あくまでも、その夢の中に登場するのみである。
だとするなら、金村を夢の中の人物とするならば、
夢の中の彼自身が夢であることに気づき、自ら退くことは、おかしい。
いや、それとも霊体のようなものなのか。
だとすれば、なぜ、馬券という現実体を渡すことができたのか、という疑問が生じる。
 
彼らは、違う世界に存在している。
原作から考えるのであれば、ジョバンニ(常磐)が生き、カムパネルラ(金村)が死を迎えている、と想像するのが妥当ではある。
ただし、以上のように、夢に気づくのが常磐ではなく金村であることに注視するならば
むしろ金村こそが、「ここにいてはいけない」、つまり、三途の川のような場所を渡ってはいけない、と気づき
引き返すことができる存在であった。
 
さらにもう一つ。
母親は「なにかある」ことを匂わせた。
しかし、大きな出来事は、常磐には起こっていない、ようにみえる。
それが、常磐こそが死へと向かっている、と考えれば、腑に落ちる部分はあるだろう。
 
または。
二人とも異世界のなかで
二人ともが別々の運命を、死を辿っている、とも考えられる。
 
生死について、少し整理しよう。
生死については、おおよそ、4つのパターンが考えられる。
1:二人とも生存パターン
2:常磐生存、金村死亡パターン
3:常磐死亡、金村生存パターン
4:二人とも死亡パターン
 
もちろん、可能性としてはすべてがある、ように描かれている。
ただ『銀河鉄道の夜』に重ねて鑑賞する者の多くは、おそらく、2のパターンを想定していると思われる。
しかし、そのように単純化することができない、ということを、ひとまずは指摘しておきたい[4]。
 
そのうえで、筆者がどの立場か、ということは、あえてここでは表明しない。
ただし、一つ指摘しておきたいことは、このコントにはある種の現実感のなさがある、ということである。
常磐が乗った列車の到着時刻は、「三時」である。
これは、原作、「『よろしゅうございます。南十字サウザンクロスへ着きますのは、次の第三時ころになります。』車掌は紙をジョバンニに渡して向うへ行きました」という部分からの引用であると考えられる。
だが、常磐の仕事が終わっていることや、天の川・流れ星が見えていることから考えるに、午後三時は考えにくい。
また、午前三時という非常識な時間に到着することも考えづらい。
なぜなら、そもそもその時間に列車は動いていないのではないか。
ゆえに、あの列車の空間は、いずれにせよ「現実世界」から隔離された時間軸にいると考えることができる。
筆者は、あの列車の空間を「現実世界ではない場所」という立場のみを表明したい。

常磐が、金村に頭を触れられ、「いてっ!」となっていたとしても、
それは=現実、とはならない。
彼らは確かに交差はしている。違う次元のなかで。
だからといって、その片側が現実という次元にある、とは、限らないからである。

さて、ところで、もう一つの重要な残されたことばがある。
それが、「ずっと一緒にいこうな」。
 
「一緒」というキーワードは、本家『銀河鉄道の夜』において、7回登場する。
 
たとえば、
「もっと遊んでおいで。カムパネルラさんといっしょなら心配はないから。」
「ああきっと一緒だよ。お母さん、窓をしめて置こうか。」
という、母とジョバンニの会話。
 
ほかにも、
「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一緒に行こう。僕はもうあのさそりのようにほんとうにみんなのさいわいのためならば僕のからだなんか百ぺんやいてもかまわない。」
というセリフや、
「僕もうあんな大きなやみの中だってこわくない。きっとみんなのほんとうのさいわいをさがしに行く。どこまでもどこまでも僕たち一緒に進んで行こう。」
という、ジョバンニのセリフ。
 
くわえて、この描写とセリフ。
「ジョバンニが云いました。『カムパネルラ、僕たち一緒に行こうねえ。』
 
ここまで書けば、すでにわかるように、
基本的に「一緒に」というセリフは、ジョバンニのものである。
しかしながら、「銀河鉄道の夜のような夜」で、「ずっと一緒に行こうな」というのは金村である。
ジョバンニ=常磐とするのであれば、
これまであげてきた、死の役割と同様に、原作と役割や終末が反転していると言ってもよい。
 
そう、まるで、活版印刷の文字のように。
 
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[1] 関口安義「「銀河鉄道の夜」を読む(Ⅰ)」『都留文科大学研究紀要』Vol.73、pp.1-20、2011年。
(http://trail.tsuru.ac.jp/dspace/bitstream/trair/537/2/T073001.pdf)。p.1。
[2] 宮沢賢治『銀河鉄道の夜』(http://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/456_15050.html参照。なお、本稿においては、共通性や検索のしやすさの点から「青空文庫」における『銀河鉄道の夜』を中心に引用することとする。)
[3] 後に指摘する、「一緒にいこうな」と、作中の彼らが別々の道を歩む、ということから、このコントが後の彼らの活動の暗喩になっている、と考えることもできる。史学的な考察は得意ではないが、確かにこの時期、彼らは徐々に、お互いのソロ活動をするなど、別の道へと歩んでいることが想定される。「別の道へと歩み始めた」という事実はあるにせよ、そうした彼らの「後の活動」については、またいずれ。

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おまけ:『TEXT』をめぐる散文

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初出:両方とも、2017年8月



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