新しくもない『news』

「私の言葉が見えますか」

文章で書いてしまうと、なんともあっけない。
なんといっても、この文章は、まさしく、視覚的に見えていなければ、おかしいから。

しかし、嘘をついたとしても、たぶん、ばれない。
だけれど、そんなことをしてもしょうがない。
『news』について、見えない言葉で考えたものを見える言葉として、書いていくことにしよう。書くことを前提にした名前でもある、かくまる(@kakumarux)として。

コント、「私の言葉が見えますか」は、簡単に言ってしまえば、「マウントの取り合い」だ。

有名な哲学者によれば、笑いは「優越」だと言う。端的に言ってしまえば、人が失敗をしたときに、思わず笑ってしまうということ。それは、ひじょうに、古典的な笑い。全然、「new」じゃない。

「私の言葉が見えますか」に登場する人物の両者は、しかし決して相手を笑うためにマウントをとりたいわけではない。相手より、いかに上手になれるか。相手をいかにだしぬくか。
笑いのためではなく、自らの人としての優位性を担保するために。

「読書対決news篇」でも、その構造は同じ。
どちらが、より優れた内容を語れるか。それに両者は終始する。

「私の言葉が見えますか(弱気)」では、そうした優位性のありかが逆転する。
この場においては、互いが下手に出つつ、むしろ「より弱い」ほうが優位とされるような立ち位置。
お互いに、弱さをさらけ出しつつ、より弱くなった方が、まるで被害者として優位にたてるように、相手を加害者に仕立てることができるようにしながら、弱者としての優位さを際立たせる。

優位性が逆転した世界、すなわち弱さこそが優位になった世界では、時として「バカ」が上に立つ。

「バッハ」では、「バカ柳」という「バカ」であることが明示されるキャラクターが登場する。たしかに、彼は、「バカ」である。
コント冒頭、バカ柳は右と左もわからないために、小林が演じる人物(「菊池たかし」)に教えてもらう。
しかし、コントの中盤では、むしろバカ柳こそが「バカの道」を教えるかのごとく、面接の落ち方を教授する。
「私の言葉が見えますか(弱気)」に続き、優位さが逆転した世界で、上に立ったバカが教えを説き、笑いを起こす。

「雪男」では、その典型として完全なる「従」の存在が描かれる。彼は、従うということを断りたいと願いながらも、自ら従の側へと流されて行く。マウントを「取り合う」というよりも、「取られ続ける」ということ。それに対する蔑みとも異なる、同情的笑い。

「王様」は、ひじょうに象徴的な面がある。
というよりも、象徴的な象徴。
「王様」に登場する、天皇は、まさしく日本の「象徴」であり、「王様的なもの」である。絶対的優越者としての王、象徴の存在としての王。
逆転という手法を再度使いながら、王は、バカにされることもある。
どちらが優越の立場にいるのかは揺らぎながら展開される、ある種の絶対的優位性に対する批判的眼差し。

『news』の構造を、もっともわかりやすく表している例は、「big news」だろう。
「big news」では、架空のnews、シンボリックなものとしての新聞を取り合うようにして、両者は争う。
いわば、「マウントの取り合い」。
知らないことを恥じるということ。
そこには、近代、情報社会における優越、教養主義への皮肉でもある。
そして、知らないとは言えないがゆえに、つまりは下に見られないために、両者は必死に取り繕う。

「英語で話そう」では、やはり「教える」側と、それを「受ける」側にわかれる。単純に考えるなら、そこには優越の論理が働いてしかるべき、とも言えるだろう。
ただし、「英語で話そう」にはもう一つ、見逃せないポイントがある。
それは、教える側が決して、英語が堪能なわけではないということ。
「けんちゃん」は、英語ができない相手に対してツッコミはするものの、「(英語で)なんていうの」と言われれば、言い淀む。
笑われるのは、「英語」的であっても「英語」が話せない片桐、ではあるものの、しかし笑う時、すなわち我々が優越持つとき、必ずしも「有知」であるから「無知」を笑うわけではない。
つまり、「無知」だけど、「無知」を笑う。その時、優越の理論と笑いの構造に発生しているのは、あくまでもひとときの「立場」でしかない。
無知であっても、とても優位な立場に立っていなくても、笑ってもよいとするような、安心して笑えるような場づくりとして、英語が話せないものが舞台上にさらされる。


「私の言葉が見えますか(完結)」では、そうしたマウントの取り合いが払拭された世界が、若干描かれながら、しかしよくわからない場所のまま、最後まで自らを優位に立たせようとして、公演は終わる。

ところで、教養主義や、絶対的な優越者=王への反駁的態度は、『home』でみたような「カウンターカルチャー」的な、換言すればサブカルチャーの真髄の部分でもある。
他方で、「雪男」という「不気味」な存在と、「無知」を肯定する手法、そして相手の思っていることが見えてしまうという、ある種の「不気味な状況設定」は、やはり『FLAT』の側面でもある。


連作としての要素を入れ込みながらも、その連作自体も一旦は終わる。
優位さが尽きない、笑いの尽きない世界のために。
新しさは差し置いて。


初出:2018年12月

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