『椿』──開閉の連結

はしがき
「批判」、「批難」ではなく、批評「的」に、思ったことをつらつらと並行的に書いてみよう、というそんな筆者が実家で気分転換するようなもの。
特定のコントにスポットライトがあたってしまうかもしれない、
大層なことでも、目新しいことではないかもしれない、
未来を示すわけでもない、迷宮に誘うわけでもなく、伝統的でもない。
ときに研究的にテクストにそったり、こまかくみたりもするような情緒不安定さも
積み上げたものを儚く散らせる唐突さも許していただければ幸いです。

本題
 論文にせよ、コントにせよ、あるいは小説にせよ、流れは大事である。例えば、山の底辺から山の頂上へと登るような構成。もしくは、山の頂上から始まり、徐々に麓へと降りるかのような道のり。はたまた、山の中腹から頂上を目指し、登頂後に下るようなルート。
 「椿」は、まさしく最初に挙げた、「山の頂上」から始まる公演といってよい。「時間電話」における伏線と主張を他のコントで回収をしていく。最後までこの「時間電話」が提示したメッセージ性は連綿と引き継がれる。
 「時間電話」について、ここではあえて、詳述は避ける。むしろ、その諸相を切り取るように扱っていきたい。「時間電話」のテーマは、(筆者が)一言で示すのであれば、それは「時空」ということになるだろう。過去、現在、未来の時間軸と、過去から現在へと向かう空間性。空間がなければ、「電話」は成り立たない。糸という物理的なものによってつながっている(かのようにみせる)。時間と空間の両者ともに不可欠、ゆえの「時空」。
 舞台上には二人の演者とともに「糸電話」が二つある。糸電話に挟まれた二人、右の糸電話と左の糸電話の間こそが「今」であることを主張する。糸の先にはそれぞれの過去と未来が広がる。いや、むしろ糸電話の「口」から時空が広がっているかのようにも映る。電話口から広がる空間と時間。糸によって閉じられ、また展開されるといったようにも捉えられる。
 これまでの哲学史上、時間に対しての重要な概念は幾度も提出されてきた。詳述はしないが、ここでこのコントに関する時間における対概念を提出するなら、それは「クロノス」と「カイロス」になるのではないか。クロノスは直線的な時間「軸」、横の時間軸ともいえる。それに対してカイロスは、時間における「点」。重要な決断をする「時」はカイロスとなる。つまり、ラーメンズの二人は我々に「今ここ」という点的な時間軸、直線上かのように演出される過去と未来という時間軸、さらに「ここ」という場所性をも提示する。そして、終わらない世界観が展開される。未来にある結果aは、現在の行動bによって成り立つ、というごく当たり前のことではあるが、それが現前化されるとかくも奇妙になる。仏教的な円環する時間感覚なのか、ギリシャ的な直線的時間軸なのかは、この際問題ではない。
 問題はむしろ、このコントを「最初」の山として配置した点である。過去の公演と、今日、今ここ、この劇場で行われるネタと、今日これから行われるネタ、さらにはその先にあるネタへと続く道しるべとしてのコント。ゆえに、このコントは初めにしなければならない。今という提示を意識させるために、過去を意識させるために、コントの期待感を作るためにも。
 ところで、「時間電話」の通話は、唐突に二つの電話を重ねることで暗転し、終わりを迎える。世界が暗転したのか、それとも時空と時空が重なりあい、今が消失したのか。いずれにせよ、このネタは「閉じて」終わる。閉じられた時間と閉じられた空間が、暗転として表象され提示される。
 次のコント「心理テスト」では片桐の寿命が掲示される。「時間電話」で匂わせた時間性の結論、未来の時間、エンドレスだが迫る時間、確実にすり減っていく時間…。同時にオチの部分で、彼らはその悪ノリが故に捕まり、牢屋にいる。まさに閉じ込められた空間、それは電話同士を重ね合わせたことで生まれた閉鎖された空間かのようで、その空間に閉じ込められた者は呟く、「いつここから出られるの?」…、牢屋の暗闇を思わせるような暗転。
 続くコントは、映像では文字があるが、おそらく会場では暗闇と声のみが展開されている。空間が開き、それまでの声を回収する。また暗転し空間は閉じられ、声が展開され、その回収をするために再び空間が開ける。開く、解決、閉じる、をひたすらに繰り返す。
 「インタビュー」でははじめにテープが回される。インタビューをするという建前はあるものの、ここでは円環の時間をテープによって匂わせる。くるくるとまわるテープ。繰り返し「同じこと」を流すことができるテープ。しかし時に上書きすら可能であるそれは、今抗うことができるかのように見せる。ここでは「繰り返し」がテーゼとして供給される。後輩と先輩という時代の繰り返し。それと同時に「朽田」という枯れる未来の暗示。冷熱によって繰り返される形状記憶合金、テープが繰り返し録音・再生されれば掠れるようにしなっていく形状記憶合金、「形あるものいずれ朽ちる」。そしてこのコントではコップ=「時間電話」と形状の似たヘッドフォンを「おいて」=「とじて」終わらせ、未来(先輩)が過去(後輩)を追いかける。
 さて、次の「心の中の男」は一つの転換点となる。ここまで、時間的な繰り返しと空間性を主張してきたが、ここでは二重性を際立たせる。建前の私と本音としての私。社長に対する顔と女性に対する態度の相違。また、これまでのコントでは、彼らはほぼ舞台において平面的に振舞っていた。奥行きを使わず、彼らの基本的な立ち位置は横線上にあった。それが、このコントでは小林が前面におり、片桐が背後にいる。まさしく奥行きを使用すると同時に、心身という(まるでデカルトのような)奥行きさえも垣間見せる。「表裏がない」という極めて平面的な言葉に対して、彼らは奥行きがあるが故に信じられない。二次元ではなく三次元。これまでの「時空」という四次元性の展開からの転換点、時間をぬいた二次元と三次元としての「空間」に焦点を当てる。
 「高橋」では、高橋という姓に支配された世界が描写される。そこで忌避されるのは「小倉」。小さい倉という示唆的なメッセージは、閉じ込められた空間(=「時間電話」の終了、「心理テスト」における牢屋)すら想起させる。空間的な広がりを持つ「橋」が、閉鎖的な空間を忌避する構図。
 そして「斜めの日」。前ネタから引続かれる強制力。空間のずれとして、斜めになる世界。暗転しかける世界。まるで閉じ込められるかのような暗さを演出する。誕生日という「クロノス」的な時間。そして、時間の勘違いと空間のずれ=斜めにより暗転。
 次の「日本語学校アメリカン」でもやはり繰り返される。未来から過去へいき繰り返されるかのように、小林の言葉を片桐が繰り返す。くわえて、そこに歴史という極めて時間性を意識させる問題を重ねる。そうして、時間性のみを表面化させる。が、このコントで最も重要なのは小林が叫ぶ「Shut Up!」。「時間電話」で叫んだ「うるせー!」をここで回収、というだけではない。「Shut Up」には、「しまい込む」/「閉じ込める」などの意味もある。つまり、空間さえも、そして閉じられた電話にさえも意味付けしあい彩らせる。
 『悪魔が来りて笛を吹く』の登場人物が「椿」であるがゆえに、「悪魔が来たりてなんかいう」というネタにて公演名「椿」の伏線回収を行う。松と栗、そして椿という「木」の人々は、いずれ「朽」ちることを示される。思い起こせば高「橋」も、そして高「梨」さえもまた「木」辺である(「棚橋」にいたっては苗字を構成する二つの漢字ともに木辺である)。
 このコントでは、左に片桐が位置し、右に小林が位置する。その状態で小林のセリフを片桐が繰り返し、俺がいった、俺もいったの押し問答。「やめろ!」という終了の合図(まるで幕間)で終わる問答、そして再び「繰り返される繰り返し」。まっちゃん、くりちゃんの過去の話がまさしく今展開され、ときに今まさに過去を知り、未来の結婚へと繋がる。「必ず迎えに来る」のは悪魔であると同時に未来であり、その未来からは決して逃れられない。そして彼らは抱き合い、暗転して終了する。それはすなわち「時間電話」で見せた電話の重なり合いを、彼らが再現している。思い起こせば、「日本語学校アメリカン」でも同様の構図のもと、小林の発話を若干の時差の後、片桐が繰り返す。左に繰り返す側の人間である片桐、右に繰り返される小林という立ち位置はまさに、彼らが過去・未来であることを示している。ゆえに、このコントは彼らが抱き合い接触した瞬間に、終了を迎える。それは、「いまここ」で見ているこの公演の終わりをも告げている。








あとがき

初出:2017年3月(だと思われる)
はじめて書いた、ラーメンズの批評文。
元ネタが気になる人はYouTubeで公式でみれるはずなので、どうぞ。

当初は、友人に言われて、友人に見せるためだけに書いたもの。
それにしても…
硬っっっっっっっっっった!!
過去のぼく、こんな文体だったっけ。

はしがきの部分は、はじめて書くからと思ってちょっとしたあそびを入れています。
ただ、本題で言いたいことはシンプルで、はじまりとおわりのシーンの連関/連結している、ということがメインです。
視点としては面白いけれど、それをよくもまあ、こんなに硬く(難く)、面倒な手続きをして書いたものだな、と思う。


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