KAJALLA#1『大人たるもの』についての書き物
1.はじめに
ラのつくイラスト発表会 第15回特別テーマ
「KAJALLA#1 大人たるもの」について、ですが。
今回、「ラのつくイラスト発表会は一度お休みをいただきます」とのことでしたので、
はじめに、謝辞を述べさせてください。
これまで、このような発表の場所を提供し続けてくれたこと、
僕のようなイラストを描けない人間に対しても、
「批評/文章」も作品の一部として取り扱っていただいたこと、
まことにありがとうございました。
このような機会と場所があったから、書いてこれたものもいっぱいあります。
毎回、なにかに挑戦するような気持ちでした。
もし、また何かのきっかけで、こうした機会や場が与えられることも、あるかもしれません。
ですが、ひとまずは、これが、僕にとっても最後の挑戦となります。
KAJALLA#1『大人たるもの』について、
はりきって書いていきます。
2.「大人たるもの」とは
KAJALLA#1『大人たるもの』。
まずは、この公演のタイトルから考えていきたい。
大人「たるもの」とは、どういうことだろう。
「たる」とは、gooの国語辞書によれば「資格を表す」ことだという。
(https://dictionary.goo.ne.jp/jn/139292/meaning/m0u/)
また、日本語的に考えれば、「たる」とはおそらく「足る」からきており、
その意味に含有されるものは、「十分なこと」などであろう。
このことから、「大人たるもの」とは、大人たりえる十分な要素、ということになる。
では、もう一つ。
「大人たりえる十分な要素」とは、誰から見て、だろうか。
おそらく、こうした「たる」の使われ方は、おおよそ外部からみて、ということになる。
たとえば、「私は大人たる存在です!」とかは、あまり言わない、気がする。
むしろ、「あなたは大人たるに十分な素質の持ち主です」のように、用いられる。
つまり、自分ではなく、他者からみて、「たるかどうか」、
資格を持ち合わせているかどうかを、見られるということ。
そして、同時に、仮に自分自身で「たる」とするときも、
主観というよりは、内部にある客観によって判断する。
「ああ、こうした行動をすれば、大人っぽいかな?」とか。
いずれにせよ、ここで問題となるのは、他者の目を気にしている、もしくは他者からの評価、ということ。
では、次から、いよいよ各コントの考察や、公演自体の考察を、少しずつしていくこととしよう。
3.ならんだコントたち
KAJALLA#1『大人たるもの』に登場する、コント群。
もちろん、そこには「大人たるもの」を感じさせる、一貫したテーマがある。
たとえば、最初のコントにあたる「ならんだ大人たち」では、まさしく「大人用」がテーマになっている。
その「大人用」のなにかをめぐって、並んでいる彼らも、定員も、空気を察して臨機応変に対応することが求められる。
「しあわせ保険バランス」では、「契約」という、これまた「大人ならでは」のものがテーマになる。
対置されるように「おさない」ために、契約を理解できず、簡単にハンコを押してしまう、大人としての表象も用意されている。
もちろん、他のコントにも、それぞれ「大人らしさ」のようなものは配置されている。
だが、今挙げた二つのコント(「ならんだ大人たち」と「しあわせ保険バランス」)は、いかなる繋がりにあるのか。
それは、幕間の移動という意味の繋がりではない。
意味的な繋がり。
「並んだ大人たち」では、最後、「大人用の何か」を投げつけ壊す。
それは、まるで「大人用」からの脱却のようでもあるし、「なにか」からの脱却のようでもある。
他方、「しあわせ保険バランス」における「システム」(さん)は、
途中で交代する。
Systemとは、本来、「構築されたもの」というような意味を帯びる。
この二つのつながり。
それは、列のように整った、構築されたSystemが「一旦崩れ、また整った」を繰り返す、ということ。
整ったものは、時として受け継がれる、ということ。
整ったそれは、脱却のために壊される。
整ったシステムは、時として受け継がれながらも交代する。
4.原点回帰としてのKAJALLA
KAJALLA#1『大人たるもの』には、「大人」というテーマ以外にも、テーマがある、と筆者は考えている。
この点について、触れていきたい。
そのためには、KAJALLA全体の流れを考える必要がある。
KAJALLAにおける、一連の流れ。
それは、舞台と道具にある。
黒子の説明からはじまり、
最初のコントでは、具体的な「物」はなく、あくまでもパントマイムだけで行われる。
それが、「しあわせ保険バランス」になると、お決まりの「箱」と、「枠」が登場する。
箱と枠は引き続き、次のコントである「味なやつら」でも、使用される。
また、「味なやつら」では、「衣装」も新たになり、また小物(ケルヒャーとか)も登場し、中心的な役割を担う。
「頭蓋骨」から続く、一連の医者関係のコントでも、白衣やボールペンなどが使用されている。
「カドマツくん」でも、パントマイムで表現するのではなく、ビールジョッキや、ファイルなどが使用されている。
「山小屋における同ポジ多重コント」では、衣装も様々で、ポリタンクなどの小物を使い、その小物の数はだんだん増えているようにすら感じる。
それが、最後の「第二成人式」になるとどうか。
照明による演出はあるものの、小物を使用することはなく、パントマイムで表現される。
この一連の流れは、これまでの小林賢太郎の軌跡を辿っているかのようにもうつる。
つまり、はじめのコントにおいては、パントマイムのみで表現するという意味における、原点回帰。
そして次第に箱や、小物が増える。
最後のコントでまた、「原点回帰」であることを示すかのように、
それが「基礎」であることを示すかのように、
「原点」であることを示すかのように、小物がない世界で表現をして幕を閉じる。
5.KAJALLA#1『大人たるもの』における同公演多重次元性
KAJALLAには、すでに指摘した原点回帰や再帰的、というようなテーマを感じさせる一方で、もう一つ、この一連の流れから見て取る事ができる要素がある。
それは「全次元」。
先の「原点回帰」とあわせて、全体から、その要素を取り出して考えてみたい。
当初、身体のみのパントマイムで行われるもの。
そこから、椅子や机のように使われる「箱」は「立体的」な存在。
さらに、窓などの役割を果たす「枠」は線的で。
線と立体、と考えれば
そこには二次元と三次元という二つの次元において構成されていることになる。
そこにくわえて、衣装や照明のような「色彩」が付け足されていく。
ボールペンの先、というような「点」は一次元的な要素も含まれつつ、
「山小屋における同ポジ多重コント」では過去と未来が交差し、
時間性までも取り入れられる。
KAJALLAの、「LL」を合わせれば四角く、箱のようになるように、箱が原点にありながらも発展した、全次元性。
それは、三つ並んだAが、価値的な意味=A級を含んでいるかのように、すらうつる。
A級を永久と還元してしまうのは、すこし、考えすぎだろうか。
しかし、KAJALLAの公演には、そうした多重の次元性すらも感じられる。
6.枠組みとしての「たるもの」とラストピース
公演のフライヤーには、以下のような記述がある。
「コント。こんなに難しくて、こんなに楽しいものに出会えたことを、今改めて感謝しています。コントグループ「ラーメンズ」、演劇プロジェクト「K.K.P」、ソロパフォーマンス「ポツネン」、NHKBSプレミアムでのコント番組「小林賢太郎テレビ」。どれも大きくて特別な経験でした。これから、全部ここに返します。KAJALLA#1「大人たるもの」へようこそ。どうぞごゆっくりお楽しみください。」
「宣誓。我々KAJALLA一同は、コントマンシップにのっとり、正々堂々と上質なコントを追求することを誓います。」
すでに、「大人たるもの」における、「たるもの」とは、他者からのイメージであること、さらには、この公演が「原点回帰」や「基礎」であること、
様々な要素がつまっていること、それらを、これまでに指摘してきた。
「原点回帰」、「基礎」的であることが、このフライヤーの記述からも見てとることができる。
つまり、これまでの全てが詰まっているコントとしての、KAJALLA。
ところで。
「大人」とはなんなのだろうか。
「こども」と対置されるように、それは成長の過程にあるものだ。
生まれた瞬間から「大人たるもの」はありえない。
また、「第二成人式」に代表されるように、公の通過儀礼や儀式はあるものの、それを通過することで、必ずしも「大人たる」とも限らない。
つまり、成長の過程、結果として、「大人たるもの」はある。
そして、それはKAJALLAもまた同じ。
成長の過程、結果としてある、KAJALLA。
「コントグループ「ラーメンズ」、演劇プロジェクト「K.K.P」、ソロパフォーマンス「ポツネン」、NHKBSプレミアムでのコント番組「小林賢太郎テレビ」」、
それぞれの大きさの先にあるのが、このKAJALLAということになる。
これらに共通するのは、「笑い」。
まさしく、「笑いたくない人はいないから」
万人に向けられたもの。
さて、「たるもの」は、他者からのイメージであった。
枠組みのようなイメージ。
こうあってほしい、こうでなければならない、というイメージ。
それは、何事にも当てはまる。
たとえば、「女性/男性らしく」であるとか、「社会人らしく」であるとか、
「BSのドラマっぽく」であるとか。
で、あるとすれば、「ラーメンズらしさ」や、「K.K.Pらしさ」、
「ポツネンらしさ」や「小林賢太郎テレビっぽさ」、
もしくは、「コントグループらしさ」であるとか、「演劇プロジェクトらしさ」、
または「ソロパフォーマンスらしさ」のようなイメージを、彼は他者からの視線として感じ、
「それにたろう」とした、とも言える。
過去の枠組みのなかでは、もしかしたら、時として「自分についた嘘」がありながらも、他者のイメージに応えようとした、のだろうか。
しかし、それでも、
そうたろうとし、
それを越えるために、大きくなるために、
過去のものを越えるために、進化し続けるということ。
次から次へと、別のプロジェクトに以降するのは、まるで脱皮のようでもある。
「Xたるもの」という枠組みの設定に対して、
その枠組みを越えるための脱皮。
既存の、用意されたイメージである、「〜用」を捨て去り、
それまでの自分すら「色あせてみえる」ようにするために。
また、時を重ねて「ああ、うまくなったんだ」という実感のもとに、
原点回帰のもと、行われた公演。
それなのに、また KAJALLAという枠組みを作って
「コントマンシップ」のもと、「コントマン」たろうとしている。
しかし、いずれにせよ、「最新の作品」には、これまでの全てが詰め込まれる。
それは、過去の作品も、そこから超えた部分も。
だから、現時点では、これが彼の枠組みで
その枠組みは、これまでを含みながらも超えた枠組みで、挑戦的でさえある。
それは同時に、原点回帰でもあった。
つまりそれは、再帰的でもあり
脱皮を繰り返し、大きくなるためのもの。
そのための原点回帰であり、挑戦。
であればこそ、小林賢太郎にとって、必ず必要になるものがKAJALLAにはある。
その半分はすでに論じてきた。
原点回帰としてのコント。
そのためにこれまで用いてきた、箱や、次元性、
それらが永久たろうとすること。
そしてもう一つ、重要な要素。
それこそが、「KJ」。
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初出:2017年9月
「ラのつくイラスト発表会」で書いたもの。
KAJALLA#1は、生でも見に行っているのだけれど、そこで感じたことというよりは、映像を見ながら考え直したこと。
本文にもあるように、これで、「ラのつくイラスト発表会」はこれでいったん終わりなのですが、後日、「ラのつくいろいろ発表会」として再開されます。
ぼくはそこでも色々と書いていくことになるのだけれど、それらをnoteにあげるのは、もう少し後になります。
それまで、しばらくは、ちょっとした物語や批評、散文なんかをあげていきます。
ご期待ください。