コント「プーチンとマーチン」・「マーチンとプーチン2」について


お題をいただきました。
「プーチンとマーチン、マーチンとプーチン2」について、書きやすい形態で、ということで。
このお題をいただいたとき、まず、すごく嬉しかったです。
というのも、身内以外からのはじめてのリクエストだったので。笑

くわえて、すごく昔に、「プーチンとマーチン」も、「マーチンとプーチン」も、音声部分を切り取って、音声ファイルを持ち歩いて、たまにシャッフルで流れてたからです。
ちなみに、いまでもそのファイルは入ってますし、たまに流れます。
たぶん、(音痴だけど)歌えます。

そして、次に悩みました。
形態を任されたけれど、どのようにして膨らませよう。
直感的にいって、「マーチンとプーチン」には、考察に足るような重い要素が見当たらない。
歌ネタです、風刺です、とか言って終わっちゃう気がしたからです。
ロシア民謡だかなんだかの、カチューシャという曲で、以前、千葉ロッテマリーンズの応援歌に使われててびっくりした、とか、そんなエピソードと事実をまとめても、しょうがないし。

では、物語にしよう。
と、思ったはいいものの、いざマーチンとプーチンを題材にして物語を展開しようとしても(僕の実力では)とても短いうえに、「面白み」のあるものが書けない。

これは困った。とても難しいお題をいただいてしまった。
結構頭を抱えました。

とりあえず、ぐるぐると見直したり。
そんなこんなで色々してると、とある着想にいたったので、
「批評」っぽく、というか「プーチンとマーチン」、「マーチンとプーチン」の二つの諸相を提示してみようかな、と思うにいたりました。

それでは、前置きがたいへん、長くなってしまいましたが、やってみましょう。

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「プーチンとマーチン」は、公演、『FLAT』の最後のコントである。
公演最後のコントには、盛大なオチを含むものや、メッセージ性の強いもの、大いなる伏線を回収するラーメンズとしては珍しく、「プーチンとマーチン」には、「大きな」メッセージ性も、盛大なオチの回収も、伏線の回収も見られない。

いや、そもそも公演『FLAT』自体、小さな物語の結集という側面もある。
それは、『ALICE』のように、一貫した関連するテーマがある、というわけでもなく。
あくまでも、それぞれのコントが、まさに「FLAT」に、並置的な扱いをされている。
ここでは、公演『FLAT』について多くは語らない。
だが、そうした並置的、並列的なコント郡においても、なぜ 「プーチンとマーチン」が、が最後のコントとして選ばれたのか。

その理由の一つは、すでに触れた、「FLAT」という並列さにあるのではないか。
つまり、このコントの重大な要素は、――筆者が批評に困ったような――意味の少なさにある。
歌ネタであり、シュールな日常の「あるあるネタ」が展開されるこのネタは、究極的な盛大なオチと、盛大な伏線の「欠落」の象徴たりえる。
ゆえに、『FLAT』の最後を飾るのにふさわしい。
並列的なコント郡であった、ということに納得し、満足できる最高の作品であるから。

では、『CHERRY BLOSSOM FRONT 345』において展開される、「マーチンとプーチン2」については、どうだろうか。

このコントは、「小説家らしき存在」の後であり、最後のコントである「蒲田の行進曲」の前に配置されている。
「小説家らしき存在」と「蒲田の行進曲」に挟まれた、 「マーチンとプーチン2」。
この3つのコントを知るものなら、こんな違和感を覚えないだろうか。
”「マーチンとプーチン2」、浮いてないか??”

シリアスなコント、二つに挟まれた 「マーチンとプーチン2」。
なぜ、このような構成なのか。

それは、映画や漫画などでよく用いられる手法による。
シリアスなシーンが続く場合、その緊張感によって構成、観客ともに「かたく」なってしまうことを嫌い、間にコメディの要素や、日常の要素を加える。
アクション映画や、バトル漫画などにおいて、この技法が使われていることを、思い起こすことができるのではないだろうか。
その手法をそのままに、コントとして使う。
ただ、コントは本来ある程度、非連続的なものである。

それでも、 『CHERRY BLOSSOM FRONT 345』には、技法を取り入れる必要があった。
それは、「小説家らしき存在」と「蒲田の行進曲」という二つの緊張感ある物語があるから、というだけではない。
「エアメールの嘘」から「蒲田の行進曲」までの間をあけることによって、
伏線を薄めさせる。意識から外す。そうすることによって、イヤミでなく、また点が線となりつながったときの感動は大きくなる。

そして、緊張感の続く場面において、緩和させる。
この二つの役割を「マーチンとプーチン2」に担わせている。
とりわけ、フルコースの料理における「お口直し」のように、
口中の油を流す無味に近い「おみず!」ように。

そのようにして、 「プーチンとマーチン」を捉えるなら、さながら、 公演終了後の余韻をスムーズに与え、イモタレを避ける 「デザート」のようでもある。

つまり、この二つのコントは、その柔らかさによって、我々に緊張感の「緩和」を、まさにクッションのようにして与えてくれる存在なのである。


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初出:2017年7月(たぶん)

整理をしていて、一番驚いた批評かもしれない。

自分が書いた文章というのは、脳内に書いたものリストとか図書館のようなものがあるから、ある程度覚えている。
だけれど、この文章に関しては、「…こんなこと書いたっけ」となった。
そもそも、「プーチンとマーチン」・「マーチンとプーチン2」について書いたことを覚えていなかったのである。
読んでいくうちに、ああ、そういえば書いたかもな、という感じにはなったけれど、当時をうまく思い出せない。

だからそういう意味でも、この文章は、ぼくにとっても、「緩和」としての、本と本の間のクッションの役割を果たしていると言えるのかもしれない。

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