『TOWER』から「カジャラ」へ
『TOWER』について考えるのは、何回目だろう。
前回の「ラのつくイラスト発表会」でも『TOWER』については、かなり重厚な論考を書いている。
その論考も、過去に書いたものを、まとめたり、加筆したりしている。
ゆえに、過去の論考は、共通性があって、同じような観点から書かれている。
今、読み返してみると、なかなかに面倒なことを、面倒な文体で書いているなあ、とも思う。
もちろん、過去に書いたものは「間違った」論考ではない。
ただ、今回はちょっと違った視点を出してみたい。
もしかしたら、過去に書いたものを「捨てる」とか、「否定する」と思われるかもしれない。
だけど、そういうわけではなくて
あくまでも「こういう視点もありますよ」の提供。
だから、「どっちもありえる」と思っていただければ、と思います。
それと、もうひとつ。
これは、ぼくと関わった人はよく聞く言葉かもしれませんが…
批評は「こういう見方もある」という断面を提示することにあります。
そして、作品にはいろいろな見方がある。
作者が意図したかどうか、は関係なく
いろいろ考えたり、いろいろな角度から見ることができる。
そんなことを少しだけ「頭の片隅」においていただけると、幸いです。
長い前置き、おわり。
本題にうつりましょう。
まずは、前回書いたものを少し参照します。
前回、ぼくは、「やめさせないと」に出てくるせりふ、
「赤いランプの下で待ってるから」の「赤いランプ」は東京タワーなのではないか、と書いた。
その点については、今も意見としては変わっていません。
なので、「TOWER」をひとまず、「東京タワー」だと想定して、話をすすめていきます。
ところで、「TOWER」とは、何でしょう。
もちろん、日本語訳すれば「塔」ですし、
前回は「TOWER」の動詞としての意味、「抜きん出ている」というものを紹介しました。
ただ、今回はちょっと違う観点から、「TOWER」の意味を考えてみます。
上記したような「言語」としての意味とは少し違う、図像学的な意味合い。
「TOWER」から想起される、そうした意味は「象徴」。
たとえば、「東京タワー」や「エッフェル塔」は、その都市の「象徴」と言えます。
東京タワーであれば、東京の。エッフェル塔であれば、フランス・パリの。
「塔」という存在自体に、そうした「象徴(シンボル)」としての意味合いがあります。
(ほかにも、フロイトに言わせたら、「塔」は「男性器」の象徴だ、なんて言うかもしれませんが…)
ほかにも、この公演には、「象徴」と言えるような存在がちりばめられています。
「タワーズ2」に登場する、「ピサの斜塔」や、「南大門」もまた、その都市のシンボルと言える存在です。
さて、ぼくの見立てでは、公演『TOWER』において象徴とされる「塔」はそれぞれ(観者からみて/以降、全て観者視点)左にある。
「やめさせないと」に登場する「東京タワー」。
これは、「赤いランプの下で待っているから」と叫ぶ時に、彼は左側を指さしている。
なので、左のほうに東京タワーもある、と想定できる。
そして公演『TOWER』に登場する、もう一つの塔。
それは、「五重塔」です。
この五重塔も、(説明するまでもなく)左側に配置されています。
では、「シャンパンとあやとりとロールケーキ」ではどうか。
ここでも、左側は重要になります。
というのは、奥まった箇所の左側に、小林はたびたび行くからです。
舞台奥の、右側の天井部分にはおそらく「エアコン」がついていて、右端のほうは行き止まりになっていると思われます。
反対に、左側には(舞台の、ではなく、コント上の・お祝いの席としての)客席がある。
そのように想定すると、「シャンパンタワー」というタワーも、「四段梯子」も、おそらくは「左側」で必要とされている、と考えることができるでしょう。
こうした、「向き」の問題は、ひじょうに重要です。
ここでは、その多くについては語りません。
あえて例えをだすのなら、「名は体を表す」で、カマンチョメンガーに乗った二人は右を向きます。
また、「タワーズ1」・「タワーズ2」ではピアノを弾く時は左を向きます。
しかし、螺旋階段を登る彼らは、右を向いて登って行く。
そんなところに、いったいどんな意味があるのか。
深く考えてみるのも、面白いかもしれません。
さて。ここまで書いてきました。
というよりも、材料を提示してきました。
最初に、ぼくは書きました。
作品には多様な見方がある、と。
と、いうことでぼくのお話は、ひとまずここまでです。
筆者は筆者なりの、「答え」は持っていますが、
それはあえてここでは書きません。
批評という作品もまた、多様な解釈ができてよい。
なので、この批評文(とも言い切れない文章)もまた、様々な解釈をしていただければと思います。
『TOWER』という公演自体もまた、
そうした提示のある作品で
終わり方自体も「開かれている」。
もちろん、材料はいっぱい提示されている。
今回は『TOWER』の、そんな構造にのっとって
この批評文もまた
材料の提示と、開かれた思想をもって
しめとさせていただきます。
と、ここまで書いたところで
ぼくはこの原稿をボツにした。
なぜかというと、なんだかずるいやり方だから。
この続きも公開ははしないだろうけれど、覚書として続けよう。
ということで、途中で放り投げた、「向き」について書いていきましょう。
舞台の、下手・上手は、観者から見た場合、下手は左側で上手は右側に位置する。
どちらに、どういった意味があるか、というのは、説がわかれるところだけれど
ぼくは基本的には上手には偉い人、下手には下の者が位置される、と認識している。
また、時間軸に関しても、ぼくから見て左から右に流れる、と考えてしまいたくなる。
これは横書きの文化に慣れ親しんでいるからかもしれないし、
時間軸の流れを舞台に導入しようとすると、どうしてもそのように見がち、という話。
もちろん、それとは逆の考えた方もあるだろう。
ただ、こと小林賢太郎演出作品においては、左から右へと流れるものが多いと考えている。
このあたりについては、本当に諸説あるし、
考え方の相違もあると思うので、その点についてはあまり語らない。
ただ、今回のこの論考に関しては、「左から右(→)」と時間が流れる、ということを念頭に置いて書いていきたい。
まずは、なぜそう考えるのかを説明していこう。
先に述べたように、『TOWER』に登場する象徴としての塔は、それぞれ左にある。
そして、そのタワーは「東京タワー」にほかならない。
『TOWER』という公演は、2009年に公開された。
この時点において、東京タワーは日本で最も高い塔だった。
しかし、2009年には、すでに「東京スカイツリー」の建設と、その名前が決定されている。
もちろん、東京タワーよりも高い電波塔になることは、発表されていた。
また2009年の『TOWER』公開時点では、まだ東京タワーのほうが高い建物として存在していた。(スカイツリーが日本で一番高い塔になるのは2010年3月)
なぜ、東京タワーにこだわるのか。
地図を開いたら、すぐにわかる。
東京の都心部。
東京タワーは(北を上にした場合)「左」にあり、スカイツリーは「右」にある。
都市の象徴は、左から右へ移動することになる。
過去から未来へ移動することになる。
その地理的な構造を考慮して、時間軸を考えてみても、少なくとも『TOWER』においては、
左が過去で右が未来、とは言えないだろうか。
他のコントでも、考えてみよう。
「シャンパンとあやとりとロールケーキ」の、奥側。
右にはエアコンがあって、その先は行き止まりになっていると考えられる。
そして左には、おそらく宴会席のようなものがあるのだろう。
その席に行くのは、小林のみである。
片桐は、決して左側に行かない。
「やめさせないと」のラストでも、片桐はいない。
ラストシーン、「赤いランプの下で待っているから」と叫び、
左側にあると想定される、タワーを指差す小林。
「タワーズ1」において、片桐は「冒険」というお題のなかで、左側からまわってくる。
これもやはり、高いところ、崖のようなところを壁沿いに。
そこで彼はこういう、「だめだ、こっちは行き止まりだ」と。
塔に関連するもの、高いことに関連すること、なにかしらの象徴を疑いたくなる部分で、片桐は『TOWER』という公演の中で、ほとんど左へ行かない。
左に位置したとしても、否定的なコメントがなされる。
そのなかでも、左側に片桐が位置するコントがある。
それは、「五重塔」。
そう、五重塔なのだ。東京タワーではなく。
由緒ある、とされてしまうほどの見た目。
もはやそれは「古のからのもの」として扱われるようなもので。
そして五重塔は、本来仏塔だ。
釈迦の遺灰がある(もちろんない塔もある)とされている。
単純に言ってしまえば、それは「墓」である。
当然ながら、それは過去を祀るもの。
ゆえに、左に位置する。
なんら違和感のない構造。
「由緒なんてない」のにもかかわらず、建てられた塔に対して、人は拝む。
内容物をみずに、その表面だけで。
だから、その塔はある時から「由緒がない」、「ただのちょっと個性的な塔」にされる。
周りの人、ではなくて、ただ一人の人によって。
ある種の解放。
それによる喜び。
その五重塔も、自由になればやや右向きに歩みを進める。
左側にアクセスできる=東京タワーにアクセスできる=過去にアクセスできるのは小林だけである。
小林のみが、過去に作られたラーメンズという塔にアクセスできる権利を持つ。
…やはり、史学的な考察はあまりしたくはないが、現在を考えてもそれは変わらない。
「ラーメンズ」は小林のみがアクセスが許された聖地になりつつある。
そのためのシンボルとして作られたTOWER。
「名は体を表す」では、二人は右へと進む。カマンチョメンガーに乗って。
左を破壊しながら。
それは「タワーズ2」でも変わらない。
二人は階段を登って行く。右に向かって。
「ハイウェスト」はどうだろう。
このコントは一見すると、よくわからない。
しかし、この「ハイウェスト」の意味を考えてみたい。
果たして、ハイウェストは、high waist だろうか。
いや、high west なのではないか。
西の方が高い、ということの暗示。
それは、今の時点なのかもしれない。
もしかしたら、今後も西=左の塔は依然として高いままなのかもしれない。
いずれにしても、左は現時点では、高い。
ただし、右は「登って行く」描写からもわかるように、
そしてまた、2009年より先に「東京タワー」よりも高い建造物が東(右)にできるように、
いずれはさらなる高みの塔ができるのかもしれない。
いずれにしても二人は右へ向かって上る。
より高い塔を目指して。
これまでラーメンズが作ってきた象徴としての『TOWER』という公演を背にして、未来へ。
次の高みを目指すために。
前回、「自立を自律」を得た上で。
そして左で最後の音が鳴る。
***
それから、8年の月日が流れて、舞台上で二人が共演したカジャラ『大人たるもの』。
まずは当たり前のことを言おう。
「カジャラ」は「ラーメンズ」ではない。
小林賢太郎と片桐仁という二人が揃った舞台であっても、それは「ラーメンズ」ではない。
その要素はあるかもしれないけれど。
もちろん、それはKKP作品にも言える。
二人が共演している、という事実はあっても、そこにはラーメンズの要素はあっても、「ラーメンズそのもの」ではない。
それは例えば、YouTubeに上がった作品を見てもわかる。
ラーメンズの作品は、「ラーメンズ公式」のチャンネルで。
カジャラの作品は、「Kentaro Kobayashi 」のチャンネルに上がっている(2019年12月現在)。
そして、ラーメンズの作品には「©︎TWINKLE Corporation」、もしくは「©︎TWINKLE Corporation / WOWOW」と表記される一方で、「Kentaro Kobayashi 」のチャンネルに上がった作品には「Written and Directed by Kentaro Kobayashi」と表記されている。
©︎という表記は、copyrightという意味で、簡単にいえば権利の所在をあらわしている。
対して、カジャラ作品にはそうした表記はない。この作品を書いた人、監督した人は誰か、ということを記名している。
カジャラ作品においては、「小林賢太郎の作品」という意味合いになる。
反対に、ラーメンズにおいては著作権の所在が、TWINKLE Corporation(と、作品によってはWOWOW)にあることが示されている。
しかし、それは必ずしも作者が誰か、ということを示すものではない。
この場合であれば、「TWINKLE Corporation(とWOWOW)がラーメンズ作品の作者である」とはならない。
著作権の所在があるという事実を示すのみである(例えば著作権は売買することもできるため)。
また、年代が書かれていないけれど、おそらくは公開された時点(2016年12月)における著作権の所在、ということになるだろう。
つまりラーメンズ作品の「作者」は誰か、ということは、この表記からは特定ができない。
ラーメンズ作品と、(便宜上、Kentaro Kobayashiチャンネルにアップロードされたものの呼称としての)「小林賢太郎作品」では、表記のされ方が異なっている。
なぜ、このような「ずれた」書き方をしたのか。
一つには、小林賢太郎の「異動」があったこと。
結果的にラーメンズ作品の「作者」をぼかした、ということになる。
つまり、ラーメンズの作品は、「小林賢太郎の作品」である、と明示されていない。
もちろん、小林賢太郎の作品ではあるのだけれども、ここで言いたいのは「小林賢太郎のみの作品」ではない、ということ。
舞台作品には、通常、多くの人間が関わる。
それは出演者であったり、裏方さんであったり。
では、ラーメンズの作品は誰による作品か。
著作権の所在ではなく、誰によって作られた作品なのか。
それは紛れもない「ラーメンズ」による作品、と言うことができるだろう。
さて、改めてカジャラとラーメンズの関係性について考えてみよう。
ラーメンズは、2009年に『TOWER』を発表して以降、劇場で活動をしていない。
ということで、そのきっかけとして、『TOWER』の意味について、考察する。
前回、ぼくは『TOWER』の意味について、「象徴」である、とした。
(https://writening.net/page?PFZ4PK)
また、さらにその前の発表会では、『TOWER』におけるタワーとは「東京タワー」と読み取れることを示したうえで、『TOWER』は自立と自律の物語でもある、と結論づけた。
( http://urx.space/hVU8 )
ところで『TOWER』が公開された、2009年には、東京タワーは日本でもっとも高い塔だった。
しかし、現在では、東京スカイツリーが日本でもっとも高い塔となっている。
2009年の時点においては、東京スカイツリーはまだ建設途中で、東京タワーよりも低かった。
(東京スカイツリーが一番高くなるのは2010年3月)
つまり、2009年という時点だからこそ、タワーマニアの二人は東京タワーに憧れた、とも解釈することができる。
そして、『TOWER』という公演において、塔という存在は常に観者からみて左側に位置する。
「やめさせないと」では、赤いランプ=東京タワーは左側に位置し、
また「五重塔」でも、五重塔は左側に置かれる。
さらに「シャンパンタワーとあやとりとロールケーキ」でも、シャンパンタワーは左側に持っていかれる。
そして少しだけ、東京の地図を開いてみれば、スカイツリーに対して東京タワーは「南西」に、すなわち、「左側」に位置している。
左側に位置するタワー、今後過去になる左側。
ゆえに左先は、常に「行き止まり」になっている。
だからこそ「タワーズ2」のラストシーンにおいて、二人は左から右へと登っていく。
タワーのあった場所を背にして。
成し遂げた象徴を背にして未来へと向かうかのように。
それからおよそ7年の時を経て、二人はカジャラで共演することになる。
カジャラは、先にも述べたように「ラーメンズ」ではない。
小林賢太郎が手がけた作品、という位置づけ。
しかしそこには要素を見いだせる。
そこにキャスティングされた、片桐仁という存在は、当然ながら必要不可欠なピースだったのではないか。
筆者が以前書いた、カジャラの論考を少し参照しよう。
そこでは、『大人たるもの』には原点回帰や挑戦としての意味を強調している。
そして、片桐仁が必要だった、ということも暗に示している。
では、なぜ必要だったのか。
本来であれば、ぼくは、違う公演同士を繋げることは好きではない。
作品は作品として完結しているから。
だけれど、あえて、『大人たるもの』の最後のコントにあたる、「第二成人式」を例にとってみよう。
「第二成人式」は、「木を切り倒すところから始まる」。
そのラストシーンでは、木を切り倒す。
そこからスタートするために。
左側で。
自立し自律した大人としての彼らは第二のスタートをする。
その先の新しい世界へ向かって。
「第二の出発点」であり、第二の象徴、新しい象徴へ向けての「第二成人式」。
とするなら、片桐は、「第二成人式」を迎えるために必要な存在だった。
ある種の、新しい出発点。はじまりのおわり、おわりのはじまり。
木と塔がリンクするようにして、これまで育ててきた木を切り倒すところからはじまる出発点。
カジャラという新しい試み自体が、新しい塔の移行であるかのようにして。
「行くなら切り倒すところを見届ける」存在として。
しかし、自立し自律した存在として、「でもそこから先は一人」で。