ラーメンズ『ALICE』の違和感について
先日、こんなお題をいただきました。
「 ALICEの違和感 」について。
せっかくなので、「ラのつくイラスト発表会」の作品として、
ALICEの違和感について、すこし書きたいなと思います。
それでは、はじまりはじまり。
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ラーメンズの公演、「ALICE」には違和感がある、と、今回お題を送ってくれた方は言う。
その違和感が、どうやら、釈然としないらしく、釈然としたいらしい。
ところで、その「違和感」は、書く側の人間からしてみれば、とてもありがたい。
仮に、筆者自身がその違和感を感じていなかったとしても
少なくとも、お題をくれた方は感じている。
ということは、違和感があることを前提に議論をすすめていけばいい。
間違い探しのように、何かがある、と思って、その何かを探せばいい。
さて、それでは、「ALICE」における最初の違和感。
それは公演タイトル。
ラーメンズの本公演のうち、( 「ATOM」のようにどちらともとれない、という公演もあるが、 )
唯一この「ALICE」だけが固有名詞である。
固有名詞としてしか、考えられない公演名。
そこからして、違和感ははじまり、加速する。
二つ目の違和感。
それは、「ALICE」における様々なコントの様式に関わる。
とりあえず、「ALICE」のコントを、並べてみよう。
・モーフィング
・後藤を待ちながら
・風と桶に関する幾つかの考察
・バニー部
・甲殻類のワルツ
・イモムシ
・不思議の国のニポン
これらのコントには、(少なくとも、筆者からしたら)とある共通点がある。
それはなにか。
それは、「オチのなさ/弱さ」である。
たとえば、モーフィングでは、「釈然としない」話が続いた後に、
変容した言葉から「ショートコント」のようなものが始まる。
「風と桶に関する幾つかの考察」では、
桶屋が儲かるための小さな話が連続する。
それらのコントに、「大きなオチ」はない。
ところどころで笑いをとるだけであって、
なにかの複線を張り巡らせ、それを回収するようなことをしない。
公演最後のコントにおける、「不思議の国のニポン」でさえ、大きなオチは無く、
「オキナワ」に関するもので順当に終わる。
たしかに、「後藤を待ちながら」における終わり方は解釈の多様性を含み、若干の伏線もある。
しかし、なぜ後藤がそうなっていたのか、についての伏線はきわめて少ない。
その伏線を回収するための作業もほとんどなく、一瞬にて終わりを迎える。
もちろん、「バニー部」や「イモムシ」、「甲殻類のワルツ」のような世界観は、ラーメンズならではある。
しかし、その一方で、これまで一公演において一つは、鳥肌が立つようなコントをしてきたラーメンズにとって
そうしたコントの不在は「らしくない」とも言えるだろう。
そうしたラーメンズらしくなさ、はもう一つある。
それは、公演を通したコントとコントの連関性である。
ラーメンズの公演のうちの、いくつかには、公演を通して、一つの物語を作り上げるようなことがなされる。
たとえば、『CLASSIC』では、帝王閣ホテルをめぐる物語という一貫したテーマがある。
『ATOM』においても、「アトム」と「アトムより」は、関連性があるように考えることもできるし、
『CHERRY BLOSSOM FRONT 345』の「蒲田の行進曲」は「エアメールの嘘」がなければ、味わえない部分すらある。
しかし、『ALICE』には、そうしたコント同士の関係を見ることは難しい。
無論、『ALICE』には、ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』に即したものはある。
「バニー部」や「不思議の国のニポン」などはその典型と言えるだろう。
だが、それはあくまでもモチーフとしての一貫性であって、コント同士のつながりではない。
つまり、ただ個別の「コント」のみがあり、「大きな物語」がない。
リオタールは、大きな物語が終焉を迎え、小さな物語があるだけの世界になることを現代=ポストモダンの特徴とした。
ここでの「大きな物語」と「小さな物語」は厳密にはリオタールの提唱したものではない。
詳細にリオタールの哲学を論じることは避ける。
ただ、簡略的に言ってしまえば、リオタールが提唱したのは全体主義が終わりを迎え、個人主義になる、というようなことである。
『ALICE』ではそうではなく、むしろその公演内における連続性、公演という「全体主義」の終わり。
個人主義、というよりもむしろ、個別的なコントの際立ち、と言ったほうが正確ではある。
しかし、我々は常に、ラーメンズの公演に二つの大きな物語を期待してはいなかったか。
その二つとは、第一に、コントにおける大きな物語。
すでに説明したような、伏線をはりめぐらせ、回収するようなコント。
第二に、公演における大きな物語。
コント同士の関係性にみられるような、全体主義的なコント。
大きな物語性、二つの欠如。
それこそが、『ALICE』における違和感なのではないか。
それは、それまでのラーメンズらしさの不在とさえ言える。
ゆえに、ラーメンズのコントと、公演に慣れた人ほど、『ALICE』に違和感を覚える。
大きな物語がなく、大きな伏線もない公演であるから。
そこに、違和感を覚えるのではないだろうか。
そして、その違和感は我々にこのようにして訴えかけると同時に、
大きな物語となりえるキーワードを最初に提供している。
「釈然としたいか?」と。
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初出:2017年7月(たぶん)