サブカルチャーとしての『home』
ラーメンズ、第五回公演『home』。
これは、DVDや脚本の書籍として、公になってるもののなかで、もっとも初期のもの。
2000年になされたこの公演は、正直言って、表層的には、ずば抜けた作品ではない。
セットが高いわけでもなければ
映像としてのカッティングが素晴らしいわけでもない。
なんなら、演者の技術が素晴らしいわけでもない。
両者ともに、素人くささが目立つし、
どことなく「学園祭」の延長のような雰囲気すらある。
小林が、途中、噛んでしまうさいも、それをごまかす術は、うまくはない。
ただ、それでも、この『home』には、語るべきものがある。
それは、そのあとにラーメンズが発展していくなかで論じることができる「最初期」のものであるという点。
さて、では、ラーメンズはいかにして発展するのか。
その時にキーワードになるのが、「サブカルチャー」である。
そして、その始原となる要素を見てとることができる点にこそ、『home』を語る意味と価値がある。
では、どこにラーメンズの始原的要素としての、サブカルチャーがあるのか。
その時語られる「サブカル」とは、一体なんなのか。
サブカル的な要素の断片を、まずは『home』のコント群から探ろう。
『home』における、最初のコントである、「無用途人間」は、最後のコントである「無類人間」とのつながりを感じさせる。
というよりも、「対」のような存在に思われる。
さて、その理由は最後に述べるとして、ひとまずは「読書対決」から見ていくこととしよう。
「読書対決」は、いわゆる有名な作家の代表作を挙げなら、それを誇張していく。
ここには、まさに「サブカルチャー」としての自意識が垣間見える。
そもそも、サブカルチャーは、メインカルチャーやハイカルチャーへのカウンターとしての側面が大きい。
彼らがあげる代表作のほとんどは、そうしたメインカルチャーやハイカルチャーに位置付けられるものであり、
大衆から「認められた」存在である。
当時のラーメンズの立ち位置とは、まさしく逆の存在。
そして、サブカルチャーとも対立する存在である。
それを「誇張」という、笑いにおける根本的な要素を組み込み、サブカルチャーのものへとしていく。
典型的な、メインカルチャーへ対するカウンターカルチャーとしての、サブカルチャー。
皮肉めいたその誇張表現と、連想力は、確かにサブカルチャーという世界のなかでこそ生み出され共有される。
続く、「映画好きの二人」はどうか。
登場する人物の二人は、「筋金入りの洋画マニア」(p.24)であり、とくに「ハリウッド映画」(p.24)のマニアである。
ここのポイントは、フランス映画でもなく、アート映画でもないという点である。
あくまでも、「メイン」のコンテンツとして、広く売れている存在としてのハリウッド映画。
メインなもののマニアという、ある種の皮肉から、この物語は始まる。
彼らはマニアであるがゆえに、「それらしく」、映画に登場しそうなシーンを振る舞う。
また、マニアであるがゆえに、小林は全ての映画を観たという自負を持つ。
それを試されたとしても、架空の映画であっても、「観た」と言う。
「観ていない」とは決して言わない。
「マニア」であることの自意識とプライドが作用する。
マニア的の意識は、コミュニティにおける地位の確立にも繋がる。
「観ていない」とは言えないのは、観ていないのは恥であるから。
そして、「そのくらいのこと」を知らない人間は、許されないから。
同時に、「そのくらいのこと」を知らない自分自身もまた、許せないがゆえに、「サミー作品は全部観た」と豪語する。
映画ファンであり、サミーファンであるという自意識が、彼のアイデンティティを保証する。
しかし、そうした映画マニアの彼の隙は、このコントの冒頭と終焉に、
すなわち「正月番組の再放送」(p.25)を熱心に観てしまい、「紅白」を録画してでも観てしまうことによって晒される。
まさしく、テレビのメインコンテンツとして放映されているであろう、この2つを、彼は熱心に観る。
おそらく、映画と同等か、それ以上のものとして。
ゆえに、彼は『ブラックボードメイソン』を、上書きして「紅白」を録画する。
ふとした時に彼は、映画ファンであるという意識を下層に落とし込む。
上塗りされた、上辺の映画ファンという自意識は、友人とのやりとりのためでもあり、
属しているコミュニティのためでもある。
サブカルチャーへの帰属意識。
そしてそれは、時としてメインカルチャーによって上書きされる。
むしろ、そちらがメインであるかのように。
まるで、マニアである彼が、隣人がやってきて、我に帰るかのように。
「上書きされる」ということに象徴されるように、彼には映画マニアと、メインカルチャーへ没頭する人間という二面性を持つ。
ファンコミュニティに帰属するという意識と、一般的な社会への目配せの両面があるように。
メインからの視線も意識しながら、
マニアとしての自意識を持ちながら、
しかし、所詮はメインカルチャーのマニアという皮肉的な一面を持ちながら、
それでもマニアとしての自意識を持って揺らぐアイデンティティは、
属するコミュニティ目線によって変化し、
場合によってはマニアになり、
場合によっては一般的な趣味となる、
その程度の「マニア」。
「縄跳び部」では、そうしたマニアともまた近い、別のあり方が描かれる。
大会に向けて縄跳びを練習する彼らの雰囲気は、どこか独特である。
いわゆる体育会系のようなノリとは異なるが、しかし大会というものがある以上、本気で取り組む。
彼らの体育会系になりきれず、どこか文化部のようなテンションは、語弊を恐れずに言うのなら、そこには「弱小卓球部」のような、
運動部なのにも関わらず、文化部としての振る舞いがある。
その、どちらとも言えない絶妙なダサさ。
女子マネージャーからの目線を気にする小林は、
先に述べたような「一般人」からの視線を気にする存在であり、
しかしそれでも、文化部的なテンションで臨む体育会系の部活動には積極的である。
ファンコミュニティとは異なるものの、そこには一般的な目線と、異なるコミュニティに属する自意識の両者が対立する。
そして「ファン」では、まさしく典型的なファン像が描かれる。
Tシャツを全色購入することからも、熱烈なファンであると同時にコレクターとしての自意識をうかがわせる。
「映画好きの二人」と同様に、即興で音楽を奏で始める。
さらには、「カルトクイズ」(p.51)という名のもとに、マニアックなクイズが出され、当然のようにそれに答えていく。
また、生粋の「カリフォルニアひやしんすバンド」のファンである片桐は、
「ノートルダムテナガエビオーケストラ」のファンでもある小林を認めない。
他ファンを嫌う、この排他的な構造もまた、マニア特有であり、ファンコミュニティの特異性でもある。
排他的になる理由は単純で、そこには純血主義のような、そのファンをどこまで知り、また一途であるかが重要視される。
アイデンティティを揺るがすような、他への「浮気」は許されない、といったところだろう。
もちろん、多くの「ふつうにそのバンドが好きな人」は、そうではない。
一般人の目線からすれば、「似たようなバンド」であっても、
両者ともにそこには確かなアイデンティティと、差異化がなされている。
もちろん、そうした排他的な人間、ファンコミュニティは時として閉塞感に満ち、
排他的な態度は嫌われる要因ともなる。
そのようにして、ファンコミュニティの、マニアの、そしてある種の「サブカルチャー」に属する人々の帰属意識を描きながら、
最後には「覚せい剤所持」というパワーワードで締めくくる。
法令に違反するような、ブラックジョークをオチにするあたりは、
サブカルチャーのさらに先の、アンダーグラウンド界隈が好むやり方でもある。
「アンダーグラウンド」とはなにか。
それは次の「百万円」を見れば、多少の理解ができる。
100万円が突如として眼前に現れた2組は、困惑、歓喜しながらもそれぞれの活用法を目指す。
それぞれの組織は、やはり「枠」が用意されている。
いわゆる「悪人」、いわゆる「善人」という枠が用意されたうえで、しかし彼らの行動はそうした枠とは正反対のものとなる。
また、そうした正反対の行動自体を、「この俺が……いい人?」(p.67)と受け入れることができない。
彼らの振る舞いは、どこまでも「悪/善人的」でありながら、その内容は反対のものであり続ける。
組織や「アジト」、また犯罪的な行為がほのめかすことによって、どこかアンダーグラウンドな世界を思わせる。
犯罪というアンダーグラウンド、そして裏社会や秘密裏な組織というアンダーグラウンド。
もちろん、アンダーグラウンドに属しながらも、「悪人」は「ナントカ平和賞」を授与される。
アンダーグラウンドを匂わせながら、「両面」を見せる。
次の「漫画家と担当」は、象徴的であり、象徴的要素をひたすらに入れ込む。
サブカルチャー、と言われる時、簡単に想起される「マンガ」を生み出す、漫画家という存在。
もちろん、映画も、一部の音楽も同様ではあるが、ここではまたサブカル的な要素として、「マンガ」を題材とする。
そして、アンダーグラウンドの要素としての「エロビデオ」が、
「メイン(ポップ)カルチャー」としての野球が、それぞれ要素として組み込まれる。
漫画家というサブカル的な存在に対立させるかのように、担当者は野球とエロビデオを取り込んでいく。
最後に、「無用途人間」と「無類人間」に触れよう。
まさしく、最初と最後で、これまでみてきたように「対」にするように作られた二つのコント。
そこで問題となるのは、無用途であり、無類。
それはアイデンティティの問題でもある。
「この世界の人間には、それぞれの用途がある。誰もが何かしらの専用人間なのだ」(p.8)と述べられ、また「この世界では、誰もが何かしらの“類”に属している」(p.81)という。
専用の用途がなく、また何かしらの類に属していない者、すなわち「無用途人間」も、「無類人間」も、用途や類を求める。
そこには、属したいという欲求。
自分が何者であるかを説明したい欲求、安心感。
それは、ある人にとっては、音楽ファンであるかのように。
またある人にとっては、映画マニアであるかのように。しかし同時に、隣人との関係がある、社会性のある人間として。または、同時にメインカルチャーである「紅白」を享受する人間でもある映画マニアという存在。
時として走りすぎて落としてしまうが、なくなってしまえば、また用途を、類を欲する。
コミュニティを、
するべきものを、
振る舞いを規定されることを人々は求める。
その度、その都度、異なる振る舞いを。
それが、彼らにとっては、
文学でもなく、映画でもなく、音楽でもなく、マンガでもなく、ましてや演劇でもなく、コントという用途において。
文学、映画、音楽、マンガといったファンコミュニティという類ではなく、またメインカルチャーでも、ポップカルチャーでも、ハイカルチャーでも、アンダーグラウンドという界隈ではなく、あえてのサブカルチャーとしての類という帰属意識。
同時にファンに芽生える、サブカルという類のファン意識。
ポップカルチャーや、メインカルチャー、ハイカルチャーではなく、
むしろそれらを冷笑し、皮肉めき、時としてアンダーグラウンドすら、時に取り入れた、コントとしてのサブカルチャー。
文化部的なノリで、どこかに属すかのように、しかしどこにも属せないようにしながら、
中間的であり、派生的なサブカルチャーとしての自意識を、自らと観客に植え付け、ファンコミュニティを形成するという原初的な存在。
それは帰属意識や原点回帰の『home』、すなわち「帰る場所」という意味だけにとどまらない。
むしろ、この位置を根源とした出発点。
要素のつまったhomeを「いってきます」と言って出た先は、まずはFLATな道。
(*ページ数の記載のあるものは、手元にある、小林賢太郎『小林賢太郎戯曲集——home FLAT news』幻冬舎文庫、2007年、第9版を参照した。)
ラのつくいろいろ発表会において、用途が用意された
かく類、かくまる(@kakumarux)
初出:2018年10月