『FLAT』な道

『FLAT』。
しかしそれはどういう道か。
あえていうなら、それは不気味なる道。


『FLAT』のはじめ、それは「初男」というコント、ではない。
映像としてのはじまりは、むしろ片桐仁の一人舞台。
奇妙な格好で、様々な表情のもと、彼は舞台照明に照らされていく。
その時は、笑いというよりもむしろ、観客席からは、悲鳴のほうが目立つ。
それは、片桐の造形に対してであり、髭面の、変顔の、得体の知れない格好に対しての、素直な反応と言える。
すなわち、「不気味なもの」としての片桐仁という存在。
それこそが、『FLAT』において、最初に提示されるものである。

その後行われる、一作目のコント、「初男」は、しかしまたしても、異形な存在の提示である。
少なくとも、空から落ちてきた、研究対象にすらなりえる、人間存在とは異なる存在、そして観客にとっては「よくわからない」存在こそが、初男。
人間をベースに考えれば、それは当然異形の存在ということになる。
初男のとる行動一つ一つ、また初男に対して行わなければならない儀礼は、ある種の神のようでもあり、同時に現代においては厄介者でもある。それは、我々の基準とは、異なるところにある存在だから当たり前と言えば当たり前で、しかしそのギャップを「笑い」に転換しようとしている。

「異形」であり、また「不気味なもの」というテーマは、『FLAT』において度々提示される。
たとえば、「埋蔵金」では、「金のうんこをするモモンガ/モグラ」や、「飛び散ったくしゃみがダイヤモンドになるおっさん」という、ある種の見世物的な存在が語られる。

また、「棒」では、「何者か」を、小林と片桐はいじめる。
その何者かは提示されることなく、しかし最後にはその何者かの「でかいの」がやってきて、彼らは逃げる。
何者かは提示されないが、そこには確かに、人間ではなく、また「でかい」ということからも、ある種の怪物性が伺える。
すなわち、「異形の存在」であるからこそ、彼らはその存在をいじめ、また、逃げる。

その異形な存在を、わかりやすくも、具体的に示しているのが、「海豹」だ。
釣りにおいて、海豹が釣れるということは、まずない。しかし、釣れてしまう。突如として現れた、魚ではない存在、ある意味では「ナニカ」である。
彼らは海豹を知りながらも、どのように飼うべきなのか、どのように捌くべきなのかは、知らない。
無知という部分にこそ、異形の存在の片鱗がある。
それがまた、突如として死体となり、それを通じて彼らはその「気味の悪い異形」を、まさしく気味悪がる。

「透明人間」では、人工的な異形が提示される。
異形になることを恐れ、また異形にすることを望む構造。

「新橋駅をご利用の皆様」と「お引越し」における異形の存在の描かれ方は、似ている。
それは、どちらも、人間でありながら、超越した存在。
そして、「透明人間」と同様に、人工的に、身近なもので、超越した存在であり、また「超越した存在に見せている」者。
後者は易者であり、前者は麻薬と酒。

易者は、そのトリックさえわかれば、なんてことのない者ではあり、それゆえに滑稽なのだが、それでも一瞬「すんげー」存在になる。

そして前者の要素、麻薬と酒。
これによって、人は時として狂う。
とくに、麻薬は、「幻覚」が見え、「幻聴」が聴こえ、「独創的な世界」が提示される。
独創的な世界、それは一般的な人間ではたどり着けない世界。
酒も、その強度は低いものの、そうした面がある。
また、両者ともに、人間の理性を解放させ、ゆえに理性的人間をある種、超越し、しかし同時に堕落させるような、「一般的な人間」とは異なる存在に、一時的にさせる。
そしてまた同時に、一般的人間が、幻覚や幻聴などの「超越したもの」へ触れられるようになる装置でもある。

問題作、「ドーデスという男」では、同様に同地平にいながらも、しかし異なる存在を描く。
ドーデスは基本的には、「どうです?」としか言わない人間である。
繰り返すことの、面白さと違和感。

そして、「ドーデス」は一般的な人間とは、少しだけ「異なる」、もしくは「変わった」存在者である。

彼の言動は、小林が演じる役にとっては、当たり前であり、またその対処法も熟知しているが、「どうです?」しか言わないだけではなく、またなにかしらの病気によって、発作が起きる。
そのようにして描かれた、「変わった」存在。

特徴的であるからこそ、またその特徴を誇張し際立たせているからこそ「ドーデス」という名が与えられている。
他方で小林が演じる役は、何者かによって、名指されることはない。
また、話の中に登場する「妹」や「かみさん/奥さん」にも、名前は与えられていない。
すなわち、一般的な人間としての登場人物とは異なる存在者としての、「ドーデス」。
形としての異形ではなく、異なった存在者の「カタチ」の提示。


この公演、最後のコントである「プーチンとマーチン」はまさに、異形の存在がテーマとしてある。
プーチンとマーチンは、共に言語は扱えるものの、また、その裏には人間である小林と片桐という存在が観客にわかるように提示されているものの、少なくとも人間ではない。
人間を超えた、もしくは人間とは異なる存在だからこそ、「せつない人間」と、人間一般に対して皮肉を言うことができる。

このように、『FLAT』 のコントでは、様々なかたちで、異形の存在を提示する。
寺山修司が試行した、「天井桟敷の人々」のように。
それを誇張し、時として反転させ、笑いに変える試み。

さて、異形の存在は、多くの場合、不気味や狂気を孕む。
そして、その不気味さは、時として笑いになりえる。
すなわち、――ベルクソンとフロイトの指向性の違いのように
――笑いと不気味は表裏一体となりえる場合がある。

もちろん、それは普段意識されることではない。
しかし天井桟敷が目指したような「見世物小屋」としての役割を、驚きや不気味さ、異形という要素を、笑いに転換するという試みは、一定の評価をすることができる。
といっても、その試みが成功しているかどうかは、定かではない。


ただ、いずれにせよ、『FLAT』は、不気味と奇妙と、異形としてのコント群。
3連作のように語られる、『home』、『FLAT』『news』において、『FLAT』だけが大文字なのは
水平状に伸びるがゆえに、曲線的な小文字ではなく、直線的な表現である大文字を使ったという視覚的イメージだけにとどまらない。
すなわち、小文字にはさまれた、大文字としての違和感。
違和感の所在、不気味なるものとしての『FLAT』。

水平直線上が続くという不気味さは、曲線状に歪んだ皮肉交じりな一言、違和感としての『FLAT』。


初出:2018年11月

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