「採集」における二重性

・「採集」について

このコントは、個人的にも、ひじょうに好きな作品で
どうやって作品と自分との距離をとれるか、むずかしいな、というのが正直なところ。
だけど、せっかく、リクエスト(?)をもらったので、書いてみようと思う。

それと、これは直接批評には関係ないこと余談ですが、
ここのところ、文体迷子症候群ですので
これまでの文体と違っていたり、
段落ごとに文体が変わったりしていても
あまり気にしないでください。ごめんなさい。

それでは、はじまり。


・すること、しないこと、雑多なこと

おそらく、だけれど、この作品は色々な人から、
批評なり、感想なりをもらってるのだと思う。

それは、「採集」という作品自体には、
ほどよいわかりやすさが、
言い換えれば、ほどよいわかりにくさがあるから。
視点をずらしてことばをあてはめれば、まとまりや、きれいさがあるから。

どういうことか。

「採集」は、まず、長い。
「コント」という形態では異様な、20分を超える作品。
テレヴィジョンのネタ番組などには、おそらくおさまりきらない。
もちろん、ラーメンズにはそういう作品は多くある。
それでも、この作品が際立つのは、「笑いの質」もある。

コントという表現をしながらも、
いわゆる、大笑いや、おなかを抱えるような場面は、
おそらくこの作品にはない。
当然ながら、随所に様々な笑いの仕掛けは点在している。
それらの全ての構造を読み解く、ということは
可能ではあるかもしれないが、ここではしない。
(しても、たぶん、あまり面白くはない。)

だからといって、
いろいろな批評でされている(気がする)ようなことを書いても、
ある意味しょうがない、需要もない、つまらない、楽しくない、読まれもしない。


せっかくなのだから、
なにかしらの違う視点(と思われる)ようなことを書きたくなるのは、
筆者個人、もしくは環境によってつくられた、性なのでしょう。

ちなみに、
すでに言われていたり、
観劇した人が気付いていそうなこと、はいくつかある。
もちろん、それぞれ興味深い問題だったり、
ifの世界を考える面白さがある。

たとえば、
「好きだったんだな、お前も」というジャックの台詞における、「も」
の意味は、ジャックも好きだったのか、それともジャックは他に好きな人を知っていたのか、はたまた、クラスのマドンナだから常識的に誰かいることが前提になっていたのか、とか。

たとえば、
「解剖日記」には、すでに「にんげん」が項目としてあるが、
これは「予定」なのか、すでに遂行されたものなのか、とか。

もちろん、劇中に描かれる、様々な複線をたどる楽しみもある。
が、それらは考察をするまでもなく、
多くの観劇者が、脚本とパントマイムの妙によって、気付いてることでもあると思う。
ので、今回は触れない。

で、
今回、主にとりあげたいのは、以下の2つ。


1.小林の二重性
2.舞台のくぎり

本当は、「視線の誘導」についても考えたのだけれど、
すこし説明も面倒なうえに、そんなに面白くもないので、カットします。
ざっくり言ってしまうと、
観客の視線の誘導と、モノがある(とされている)配置が絶妙で、
プリマは観客がみて右側にいることが多く、左への動きが多く、
ジャックはその反対。
初期位置も、最後のシーンも。
視線の誘導さえもちゃーんと複線はってますよ、ということ。
下手なペイントでモノがある場所とかもメモったので、
たぶん間違いないと思う。
暇で絵が上手い人、興味があったらやってみて。
(これは余談ですが、ラーメンズのコントは視線の誘導に関しても、ひじょうに練られているものが多いので
いろいろなコントで出来ると思う。)

はい、ここまでは余談というか
導入です。
それでは本題。


・「小林の二重性」について。

「採集」において、小林には二つの名前が与えられている。
一つが、皆さんご存知、「プリマ」で、
もう一つも皆さんがご存知、「小林」である。

「小林」は、もちろん小林賢太郎なのだけれど、
舞台上の「小林賢太郎」とは別に、このコントにおいて彼は「小林」なのである。

どういうことか、といえば単純で
ジャックから、「プリマ」と呼ばれながら、
ジャックが演じるマドンナには「小林くん」と呼ばれている(三点倒立してるときに彼女がやってきたら…「小林くん!?」のシーン)。

「プリマ」というあだ名が、どのようにして付けられたのかはわからない。
サーブが華麗だからかもしれないし、もしかしたら下の名前がプリマで、採集において彼の本名は「小林プリマ」なのかもしれない。

この「プリマ」というのは、また少し厄介で
マドンナと付け足して、「プリマドンナ」として理解することもできる。
豚肉が出てくることから、「プリマハム」としても理解できる。

ただ、もともとの「プリマ」の意味は、
英英辞典によれば「indicating the most important performer or role」とあり、
ざっくりと訳してしまえば「もっとも重要な役柄、もしくはパフォーマー」とされている(http://english.cheerup.jp/eedict/search?name=prima参照)。

確かに、このコントにおいて、小林(プリマ)はもっとも重要な役である。
ジャックよりも?という声もありそうだが、
ジャックは舞台にいない時間がある。
が、プリマは常に舞台にいる。

究極を言えば、ジャックがいなくても、
小林が一人で得意のパントマイムや、一人劇をすれば
このコントはみれる形にはなる。
が、ジャックのみではそうはいかない。
ジャックは席をはずすのだから。
(だからといって、けっして、ジャックがいらない、ということではない。ジャック=片桐がいることによって生まれる切迫感や、二人の掛け合いによって、このコントは「作品」たりえる。)

さて、小林の二重性は、それだけにとどまらない。
「二重性」はそれ自体がテーマになっているのではないか、と疑いたくなるほどに散りばめられている。
小林でありプリマ、というほかにも、
「花屋」である彼に対して、ジャックによって背負わされる「お前はサラリーマン!しがない営業マン!」という職業の二重性。
才能に関しては「ミステリー小説作家」と「ラッパー」。

小林の役者と脚本家、のような二重性にみせたいのではないか、と勘ぐりたくなるほど、
多くの二重性が付与されていく。
くわえて、ピアニストのように振舞うときに彼は
「いつからだろう、弾かずに弾かされはじめたのは」
と自戒するかのようにつぶやく。
その後、「弾ける!」となるのも、また他者からの影響というのは興味深い。
弾かされるようになったのも他者であり、
弾けるようになるのもまた他者であるのなら、
どちらせによ、弾くことは他者にゆだねられている。


「誰に見せてるってわけでもねえのに」
「俺は誰に話してるんだ」
という二つの台詞からは、「メタ」的な要素を感じさせる。

おそらく、一定数の観客が直観する「メタ」についても、多くは論じない。
「採集」の前にも、この公演ではふんだんに、メタを使っている(たとえば、「新噺」。)
ただ、一つ。
舞台であるという現実を指し示すということは、すなわち、
現実のうえにある舞台という、二重のレイヤーを示す。


このようにして、多重に二重性を垣間見せる。
そして、その二重性は、次の問題にもつながる。


・舞台のくぎり

先までに、「採集」の二重性について、説明してきた。
しかし、「採集」にはもう一つの二重性が隠されている。
それは、舞台の二重性である。
メタ的な要素で二重のレイヤーがある、ということではない。
そういった概念的、観念的な問題ではなく、物理的・視覚的に、「採集」は二重である。

そしてそれは、舞台としてはイレギュラーな仕方である。
プリマは、語りかける。
語りかけるさきは明確で、
ジャックにでもなく、また「誰に語りかけているんだ」という状態ではない。
独り言ではなく、相手がいるわけでもなく、動物(だったもの)へと語りかける。
それはすでに無機物に成り果てている。その語りかけるシーン。
「採集」の公式動画、20:30程度から、小林は舞台を「降りる」。
しかし、正確にいえばそこは舞台ではなく、「舞台上に作られた舞台」を降りる。
「一人にしてやるよ!」という台詞もなしに。
座りながら、体の半分が灰色の舞台に残っているのとも違って、完全に。

採集小林

https://www.youtube.com/watch?v=os_hxNF4694 より)


「舞台の上の舞台」という二重性。
そして、その「舞台上の舞台」を、「もっとも重要な役柄」である「プリマ」が降りるとき
一時的に「舞台上の舞台」には誰も存在しないことになる。
それでも「舞台」にはプリマ(小林)は存在する。

このとき、片桐も舞台にはいない。
2人の役者が不在の舞台、
そのなかでもコントは、公演は続いていく。

ひじょうに奇妙な状態、軋轢。
(もちろん、そうした違和感は感じさせない。)

・軋轢の解釈

さて、この軋轢をいかに解釈するか。
小林の二重性と、物理的な二重性(舞台の二重性)。
不在の舞台。
「採集」において見せられたように、
その伏線の採集に向かうとしよう。

小林の多重性は、舞台の二重構造と連関している。
プリマはプリマでありながら同時に小林であって、その小林は同時に花屋でありながらサラリーマンであるように、
小林は脚本家でありながら演者で、だからこそ我々に「語りかける」。
しかしそれは舞台があるからこそ。
舞台の外での彼は役者ではない、ゆえに「我々」には語りかけない。

彼がことばを発するのは、こわくない!という自分のためであり、
才能の確認であり、
また動物たちへ向けたものである。

舞台に依存している、と言ってもよい。
多重性な自分は舞台ありきで
舞台が多重性をつくったのだから。
完全な自分も不完全な自分も。

採集において展開されるのは
ジャックの執拗なこだわり、というよりもむしろ

プリマの「普通」なまでの二重性と
小林の違和感のなさすぎる「演技」と、

舞台ではない場所をも舞台とし
舞台に依存せざるをえない状況と

そこが作り出した彼(ら)。


舞台が彼(ら)の多重性を作り出し
彼らはその多重性のなかから、適宜自分を選び、また選ばれ、迷いつつ
その多重性がある限り、また多重性を投影される限りにおいて
舞台を離れられない。
舞台から降りてもそこもまた舞台であるかのように。
舞台から降りても演技は続くように。
日常世界においても演技は続く、かのように見られるように。

そして我々もまた
今日、不在の舞台に
なにかを投影していたりは、しないだろうか。






******
あとがき

初出:2017年8月(だと思われる)

ひじょうに、構想に苦労した覚えがある。

本文でも書いたとおり、考察や推察などが多そうな作品なので、どのようにかぶらないようにするのか。
くわえて、観者がつぎにみたときに、「邪魔にならない」ようなものにしたい、というのもあった。

難しいテーマになってしまったけれど、面白い、新しい視点、他の方が気づきにくいのはどこか、といったところをあれこれ探して、なんとか自分らしい視点で邪魔にならない、それでいて批評っぽいものが書けたかなあ、と思う。






いいなと思ったら応援しよう!