彼岸の『鯨』
「公演」には山がある。
いや、鯨なのだからそこは海だろうと思われるかもしれないが、どちらかと言えば山。波でもいいのだけれど、山の方が説明しやすい。
それは、音楽でいえば「サビ」のようなもので、主調やメッセージ性の強いもの、または一番笑えるもの、だったりするかもしれない。
文章や論文だったら、最初に主張をどーん!と言って頂上から下るようにしていくのか、それとも、一番下から出発して、頂上を目指すのか。
だいたい、そんな二つのパターンが多いが、本来はどんな山登りの仕方でも、よい。
さて、『鯨』はどんな山だろうか。『鯨』は、オシャレな山だ。
それは、サブカルからの脱却をはかるために、ハイカルチャーとしてのクラシック音楽が挿入されるから、というだけの理由ではなくて、その構成からしておしゃれ。
「壷バカ」のように、無言で動きと音だけが反響するようなコントがあるからでもなく、おしゃれ。
それは、公演のなかで、真ん中にあたるコント、「絵かき歌」が担うところが大きいです。このコントに登場するのは、まさに「鯨」。その次のコント「count」にも鯨が登場する。
これまでも書いてきたような、「象徴的」な、モチーフを、あえて真ん中あたりにおくこと。
最初に提示するのでも、最後に主張するのでもなく、真ん中に山場を持ってくること。
鯨としてのアイデンティティを、それこそ真ん中付近にある潮吹きの器に任せるようにして。
そして、『鯨』に登場する、いくつかのメッセージ性の強いコント。
公演の最後にあたる、「器用で不器用な男と不器用で器用な男の話」では、コントというよりもむしろ演劇に近いと言える。
ところどころで笑いはとるものの、そしてまた、オチは作るものの、美大出身らしい発想の売れない自称天才芸術家と、金は稼げるが自称つまらない人間の対立的構造。
おそらく海辺に住む彼らは、象徴的な鯨が海へと戻った「風」に吹かれる。そして、鯨がその故郷に戻ったように地元に戻る。
「超能力」もまた、メッセージ性は強い。
以前書いたような、片桐の「不気味」なヴィジュアルを有効活用しながら、トリッキーに舞台は進む。
そうしたコントを、これまた最初ではなく、二番目に置くことで、メリハリをつけにくる。そしてまたここにもある、超能力がある/ないという対立構造。
メッセージ性の強い二つのコントには、どちらも対立構造がある。
できる、できない。ある、ない。
ところで、象徴的なコントとしてあげた、二つの作品。すなわち、「絵かき歌」と「count」に登場する鯨たちは、いずれも海へ帰る。海の底へ。実家へ帰るようにして、海へ再度沈んでいく。『もののけ姫』でサンが最終的に山へ帰るようにして。
彼岸、というよりもむしろ彼海、彼の海へ。
あちら側と、こちら側。
それは「count」で小林が我々に見せたものと同様の世界。鏡像的な「こちら側」と、舞台というあちら側。
そしてまた、ある、と、ない、できる、できないといった対立関係のなかで、『椿』でもあったような水平と垂直の対立構造をそれぞれ組み上げながら、より一層異なる世界を強調する。
そして、その強調された対立構造の世界は、「アカミー賞」で見せるように、時として融合する。「いまここ」で、舞台と観客席を隔てながらも、席側に片桐は降り、そしてまた上がる。
「超能力」では、得体の知らない第三者的な世界から腕が伸びて小林は落とされる。
舞台を基準とした、彼岸との往来。水辺のように、水に潜り水面に浮かび上がるように。
舞台においてもあちら側とこちら側は、海へ戻れば仲間たちとは別れ、今生の別れとなる。
他方で、片桐が乗降を繰り返したように、時として行き来される。
そして、時として意外にも彼岸は「近い」と。
初出:2019年2月