『椿』はオちる
「ああ、ついに椿がきてしまった」
それは春の訪れでもなくて、公演『椿』を再度書く機会がきてしまった、という、ある種の気の進まなさ。
筆者は、すでに一度、『椿』については書いている。
どれほどの人が、その論考というか、批評を見ているかはわからないけれど、読みたい方はこちらからどうぞ。
(『椿』──開閉の連結 」 https://note.com/kakumaru6/n/nd48d4d5d1a2a )
ざっくりと、前に書いたものの内容を説明すると、公演『椿』は、「時間電話」ではじまって、そこでは象徴的に「閉じた」世界が描かれる。途中のコントはそうした閉じた世界観が描かれて、最後また二人が抱き合って「閉じて」終わることにリンクしている、という、そんなお話。
ただ、今回、その話をまたしてもしょうがない。むしろ、なにかしら、また違う視点を出さないといけない。これがなんとも気が進まない。ぼくにとっては、過去に書いたものを別のしかたで更新する、というのは、二重の意味で憚られる。
一つは、過去の自分を否定したくない、というもの。過去に書いたものであっても自分が書いたものには間違いはなくて、それを否定するようなやり方は、自分を否定するようでもあって、とても苦しい。もちろん、厳密に言えば、「いまのぼく」と「かこのぼく」は違う人間でもあるけれど、それでも同一的な存在でもある。
もう一つの憚られる理由は、過去に書いたものを超えられるかどうかが試されているから。その審議は筆者であると同時に読者のぼくにも委ねられているし、筆者では無い純粋な読者の皆様方にも委ねられている。といっても、こっちのほうがいい、あっちのほうがいい、というのは同時に、どちらかの否定にもつながるから、一つ目の理由にまた立ち戻って、やっぱり気が進まない。
ぼくの戸惑いや気の進まさの象徴としての無駄な文章を、いつまで続けていてもしょうがないので、そろそろ本題に向かうとしよう。
ひとまずは、『椿』を通底するような概念を提示したい。それは、「二重性」、もしくは「多層性」とでも言うべきものだ。
たとえば、最初のコントである「時間電話」では、時間の複数性が提示される。
流れ行く時間は確かに一直線ではあるものの、一直線のなかを彼らは行き来する。もちろん、厳密には「今ここ」でしかないのだけれど、それでも行ったり、戻ったり「しようと」する。
さらには、彼ら二人の態度も多重的だ。一方は仕組みに気づき、一方は気づいていないという状況。
もちろん、笑いを生じさせるにあたって、こうした「ズレ」は重要で古典的で、そこが物珍しいというわけではない。ただ、そこにある時間と彼らの多重性、多層性は、注目に値する。
続く「心理テスト」では、妄想的な世界が、現実として描かれることになる。彼ら二人は、一見すると、心理テストをしながら、発展された世界を語るのみであるかのように映る。しかし、それは現実としてなされたことであると、のちに明らかになる。妄想的と「思われる」語られた部分が、現実に昇華されるということによる多層性がそこにはある。
「ドラマチックカウント」も同様で、二つの世界を見せている。はじめに提示される、文字だけの世界、もしくは前振りとして、世界を前提にしながら、その後に振りを回収するようにして、オチの世界が描かれる。
「インタビュー」は、「マスコミ専門専門学校」という二重性のある固有名詞が登場するように、やはり多層的な構造がある。マイケル本牧は、「マイカル」とも(間違いではあるものの)呼ばれる。また実際にしている仕事と彼自身のキャラクターのギャップもあいまって、「オチ」を形成する。
他方で、クチダの「おしっこをしたい/したくない」というような、本音と建前に代表されるように、クチダもまたインタビュアーとして振舞わなければならない、という規範的(になろうとする)振る舞いと、彼の普段の振る舞い/本質的な振る舞いの二面性を提示する。
「心の中の男」でも、二面性は変わらない。説明するまでもないが、これも「インタビュー」と同様に、建前と本音の現前化であり、嘘と本当の二面性の提示である。
「裏表」があるということ。そして、「裏表」がなく、我々に見せられる舞台。その裏表は、当然裏と表という二重性が押し出されている。
その一方で、社長へ向かう方向性と、女性へ向かう方向性。横軸のベクトルがあり、さらに縦軸として、対外的に接する小林と、内面を演じる片桐という二面性のある世界観。換言すれば、奥行きがあるように見える一人でありながら二人の現前化と、見えはしないものの両面にある、横軸としての社長と女性。
二面性、というよりも縦(奥行き)と横、という二つの次元によって形取られた、多層的空間。
「高橋」では、「高橋のほう」と「高橋じゃないほうの高橋」のような、内実と外的な存在としての高橋が常に中心にそえられる。
高橋は高橋のまま、でありながら、しかし高橋ではなくなる。苗字という表面的なものが変わるために。
高橋以外を差別しないという建前と、しかし生理的に受け付けることができないような二重性。
さらには、「タカハシコタロウ」における、「高橋」と「高葉」の二面性。そして、「高橋じゃない会のヤングリーダー」でありながらも隠し、高橋でいたこと。これらが折り重なった、「高橋(ら)による多層的コント」。
「斜めの日」は、その日自体が、「誕生日」でありながら、「斜めの日」でもある。また、コント内においては、「俳句」でもあり「川柳」でもある一句が詠まれる。そうした二重性を示唆しながらも、また内容的にも、自らが自らを祝う、という自己言及的なかたちは、いびつではあるものの、残響的な多層的祝福でもある。
「日本語学校アメリカン」は、応答と繰り返しの構図である。
片方が言ったことを、片方が返すという掛け合い。繰り返し、という連続的でセットでもあるような、一つのワードが違った声によって「二面」に、そして「二重」になり、ラップのような掛け合いでは一つの曲のようにして「多層」を成す。
「悪魔が来たりてなんかいう」は、これまでのそうした二重性や多層性をふんだんに盛り込む。
「二人」の悪魔による、姿は違うは同一の「悪魔」という名の持ち主は、繰り返しとして、「俺は悪魔だ」、「お前が迎えにきた」という発言を行う。
メタ的でもあるが、それ以上に二人だけの掛け合いという、横の線がありながらも、奥には「椿ちゃん」の結婚相手と思われるような人物がいることを思わせる。すなわち、横軸と奥行きという多層性。
また、自らの出自を隠しながら自らの過去を露呈させるという二面性、悪魔と人間という二面性はもちろんのこと、自らの過去と今という時間軸でも、いくつかの層を形成させている。
悪魔としての語りは、同時に人間としての思い出の語りでもある。被害者としての「悪事」を他者の目線から語り、被害者と加害者という「裏表」のある場では、「語り」と「語られる」という多層性が発揮される。
エコーも相まって残響的に、本人であることを隠しながら、嫉妬心はありながらもそれすらも隠すという本音と建て前を入れて、本来では現実界にはいない他の世界からの死者である悪魔というそれ自体多層的な存在が、さらに多層的世界を繰り広げていく。
さて、これまで、『椿』における各コントを、二重性や多重性、多層性といったくくりのなかで説明したきた。
しかし、二重性、あるいは多層性という、いわゆる批評においてありきたりなキーワードで、なぜ『椿』のコント群をくくってきたのか。そこには、いったいどんな意味や意義があるというのか。
そのように思われるのは当然で、それはある種の正解。そこには、批評の力なんて、ありはしない。
では改めて、なぜ二重性、あるいは多層性が大事になるのかを問おう。
それは、『椿』であるからにほかならない。
以前の論考では、「悪魔が来たりてなんか言う」が『悪魔が来りて笛を吹く』のオマージュであり、ゆえに登場人物が「椿」ちゃんであることを示唆した。
しかし、『椿』が椿であるのは、それだけの理由にとどまらない。
つまり、オキザリスでも、桜でもなく、さらには薔薇でもなく、「椿」であるということ。
いまいちど、椿の花弁を思いおこせば、その意味に近づける。すなわち、椿の花自体が、多層的に折り重なっている。中心はありながらも、その中心を包み合うようにして織り成された多層的な花としての椿。
もちろん、そうした多層的な花は、自然界において椿だけではない。たとえば、薔薇もまた多層的な花の代表として語られる。しかし、薔薇であってはならなかった。それは椿が一文字だから、などという理由ではない。
椿の散り際は、いや、散るというよりも落ちる。コントと同様に、椿は「オチ」としての象徴を担う。桜のように、ゆらりひらりと舞うように散るのではなく、コントであるがゆえにオチなければならない。そのための椿。
またその一方で、以前の論考でも示したように、公演としての『椿』は「閉じて」終わる。椿が落下して、地面と接触するようにして。「斜めの日」でも「落ち切らない」が、『椿』はオチる。
そしてまた、オマージュとして扱われた「椿ちゃん」は、高嶺の花である必要があった。彼らにとって手の届かない、そして手の届かなくなった存在。一時期手が届いていたにもかかわらず、歳を重ねるにつれて、高嶺の花になっていったという成長可能性。だからこそ、オチる花であったとしても手の届く、ボタンであってはならない。手の届く椿さえも高嶺の花となり、そして他人の手へとオチ、椿が地面と接触してその生涯を終えるようにして、「時間電話」で椿と椿によって内側に閉じられ描かれはじめた多層的世界は、地表の人間二人による接触と、椿の落下によって幕を閉じる。あくまでも椿である必然性と必要性を匂わせて。
コントにおけるオチと重なり、女性が落ちることと重なって、その重なりは椿という花に象徴される。そして椿が散ることと重なって、『椿』は落散る。
初出:2019年1月