『STUDY』は完璧な作品である
今回、ぼくがこの批評文で単体であげることに戸惑った理由。
そんなことを書いていきたいと思います。
さて、タイトルからして何いってんだこいつ、と思われる人もいるでしょう
それでも、声を大にして言いたい。
公演『STUDY』は完璧な作品である!
今更感が漂うかもしれない。
なぜそんなことを、わざわざ言うのか、と思われるかもしれない。
それは、書く側の視点からいえば、「批評性」の有無に関わってくる。
ぼくが思う批評、というか
やりたいこと、したいこと、書きたい文章について、少しだけ説明を加えましょう。
「ラーメンズ」を題材にして、笑いの構造分析をしたい、というわけではない。
笑いの構造分析、というのは、例えば、このコントにおいて笑いがおきるのは、こういう理由からだ!のような。
「笑いの構造分析」をしない理由は色々だ。
有名な哲学者の議論を参照したりできるような人にお任せしたい。
であるとか、
それって(こういう場で)書いたところで、「ふーん」で終わるんじゃないか。
とか。
「わざわざ言われなくても知ってるよ!」とか「直感的に面白いのだからいいじゃない」
なんて反応がかえってくる気がするから。
では、していくこと、したいことはなにか。
それは、ラーメンズのコントや、公演における、「新しい側面」をみせること。
ほかの人があまり気づかないようなところをクローズアップして広げてみたり。
そんな見方があったのか!とか、そんな解釈もできるのか!とか。
そうやって諸相をみせることで
もう一回みたときに、なるほど、と思ってもらったり
新しい見え方、これまでとは違う見方をしてもらったりしてもらえると
とても嬉しかったりする。
それで、今回、『STUDY』を批評するにあたって、
どのように批評するか考えたみた。
だけど、そういう、新しい諸相を示せるようなものを書けるようなとっかかりがない。
とっかかり、ってなんだ、と思った人は、正解で
まさしく、「とっかかり」と言ったそれが、「とっかかり」。
おっと、ややこしくなってきた。
すこし換言してみよう。
これまで、いくつかのコント、公演について書いてきているのだけれど
それはどれも、なにかしらの「とっかかり」があった。
それは、コントや公演においての、「浮いた」発言や、行動。
そういう凹凸の部分を手がかりに、なにか新しい視点を探す。
たとえば、「採集」においてそれは、「舞台を降りること」だったし、
『椿』においては「シャラップ!」「うるさーい!」だった。
そういう浮いたものが、『STUDY』にはない。
一つのコント、公演で完結されている。
伏線がすべて綺麗に回収されていたり
その人の背景に立寄らせないような瞬間的な説明力がある。
少しのとっかかりがあったとしても、それをきっかけに、文章を書けない。
書けたとしても、それはTwitterの一つの投稿文くらい。
こんな例えをすると、わかりやすいかもしれない。
ボルダリングとか、ロッククライミングをするには、出っ張りがないと登れない。
まっさらな壁は登れない。
一箇所だけ出っ張っていても、やっぱり登れない。
そう、『STUDY』はまっさらな壁なのである。
それも、白い壁。
だから、(こんな説明をしながらも)罪悪感に襲われる。
完璧すぎる作品に注釈をつけたところで
それは蛇足にしかならない。落書きにしかならない。
たとえば、あまりにも綺麗な夕日に
どんな言葉をあてはめても、安っぽくなってしまうように。
もちろん、その夕日のすごさ、美しさに対して哲学的な議論を展開する人々はいる。
だけれど、そういうことをしたいわけじゃない。
新しい側面をみせる、もなにも、その夕日はあまりにも綺麗な夕日という捉え方しかできない。
そう考えたときに、言語の力は無力。
さて、それでも、
蛇足になったとしても
少し細かく、その「完璧性」について、説明していこう。
公演『STUDY』に登場するコント。
「study」、「ホコサキ」、「QA」、「科学の子」、「地球の歩き方」、「いろいろマン」、「金部」。
これらのコントはすべて、「言語」で構成されていると言っても、過言ではない。
立ち入る隙のない脚本。
言語で説明され、笑わせ、伏線を作り回収する。
もちろん、服装や舞台設定なども、重要な要素たりえる。
しかし、この公演を通して一貫した世界観はなく、
一貫したテーマがあるとしたら、それはあくまでも「言語」。
ありもしないことわざ。
実在することわざ。
かけあい。
言質のとりあい。
"単語"の不可思議さ。
「質疑応答」。
科学言語。
濁し。
有名性の匿名性。
言葉たくみな話術。
脚本自体に芸術的な価値があると思わせるほどに、それらは完結している。
言葉遊びの粋を超えた、言葉の使われ方。
言葉は、理性の産物であり、人間の本性でもある。
それらを巧みに配置し、
つくられたこれは
もはや数式のようなカンペキさで
どこにも崩す余地がない。
逆に、どこかになにかを加えてしまえば、
数式に違う数字が混ざって答えがかわってしまうように
一点、「とっかかり」ができてしまう。
ゆえに、ぼくには、そのカンペキさを解説したり、
批評したりなんて、とてもできなかった。
そのうえで、作品をつくる、としたら
もう、解体して、作り直ししかなかった。
そんなイイワケのあとがき。
『STUDY』がカンペキであるがゆえに、そこには手を加えられず、
解体して再構成した別世界を提示をしてみました。
*********
初出:2017年7月
あとがきの後に、さらにあとがきって…。どれだけあとがき書くのだろう。
この批評文は、noteに投稿するか迷ったものです。
その理由は二つあります。
一つは、形式的な問題。
Twitterであった企画、「ラのつくイラスト発表会」で発表したとき、この文章の立ち位置はあくまでも、「おまけ」のようなかたちだった。
で、ぼくは、noteで、そうした「二次創作的な文章」をあげるつもりはなかったから、この文章との兼ね合いや扱いが難しいなあ、と思っていた。
(一次創作の文章はこちら。)
もう一つは、内容的な問題。
なんというか、読み返してみると、コミュニティに迎合しているようにも読めてしまう。
ゆえに、(ぼくからしたら)「おもしろくない」、ありきたりな文になっている。
ぼく自身の本心や、考え方も、少しはあるけれどそれは結果的に滲み出たものでしかないくらいの濃度。付け加えるなら、いまのぼくからみて、この文章を書いたぼくは軽いわりに、「ノってない」。
ああ、批評文も書かないとなあと思って、「たららん」とかるーく書いていて、それだからこそ産みの苦しみが、この文章自体にはないように感じる。
重くするなら、もっと言語とか、構造に突っ込んでいるはずで、それを「あえてしていない」としたら、それはそれで、やっぱり迎合なのだろうと思う。けれど、そんなことも、たまには必要だよね。
完璧であると論じてしまうことや完璧であることは、自身にも他者にも薄くて飲みやすくした甘口のドリンクで、それはある意味では毒なのです。