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文体を捨てること

芝居を上演した後の感想で「こうした方がいいよ」というアイディアを頂くことがよくあるのだけど、まあ有体に言って、そのアイディアは当然、思いついていて、敢えて「そうじゃない」方向を選んだのである。
私も多くの場合観客であるからよくわかるのだが、創作物を観ながら自分が「思いついた」一つのアイディアというのは「それこそがベストだ」と思い込んでしまいがちだ。だが作者にとってそれは一観客の瞬間的な「思いつき」であり、創作の過程で何十、何百とリストアップし検討した結果「捨てた」一つのアイディアに過ぎない。
勿論、作者の選択が必ず正しい、というわけではないから、「このアイディアの方がいいのに!」と感じることはあり得る。
だが「作者がこのアイディアを思いついていない」ということは、まずありえない。
「なぜこのアイディアを捨てて、あのアイディアを選択したのだろう?」と考える道筋こそが批評の端緒に繋がるはずだ。
このことは、モノローグ演劇祭で審査員を務めた際に、審査委員長の西田シャトナーさんに教えられた。
私がつい、「こうした方が…」と作者に向かって喋りかけた際、やんわりと制して下さった。
観客は、つい作者の思考を先回りしようとするけれど、それは周回遅れの背中なんですよね、みたいなことを、その後喫茶店でゆっくり話して下さった。目が開かれた体験だ。

私が芝居を始めたころ、何を語るかではなく、どう語るかをまず、考えた。書きたいことはなかったが、書きたい方法はあった。その語り口に沿うように、拙く・拙く・物語を張り付けた。
作品を観た諸先輩がたからは、その「拙い」物語のみが取り上げられ、猛烈に批判された。
「こうすればいい」と沢山のアイディアを提供されたが、そのすべてが私には無価値だった。そんなことは分かっていて、そしてそれらを全て捨てたことに、(私にとって)自作の価値はあったのだから。
「つまらなかった」と言われたらゴメンなさいだ。
「正しくなかった」と言われたら、その正しさをあなたは抱きしめて生きてね!としか言いようがない。
どうしようもなく、アマチュアだ。
そうやって15年、頼まれもしないのに勝手に書いてきた。
今回は「頼まれて」書くのだから、そうはいかない。
自分が15年をかけて捨ててきた選択肢を、イチからすべて拾っている。
すべてに15年前の自分がいる。
ひどく偏屈で、神経質で、無教養で、そしてちょっとどうかと思うほどふてぶてしい23歳の若者だ。
かなり老けてるけど、私もやっぱり若者なのだった。


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