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並列世界の直列話法

はじめて、自分の劇団以外に作品を書き、演出する。
「#家で出来る演劇」というユニットで8月末に上演する。
タイトルは『クォンタム・アリアの碧い首』。

https://note.com/playathome/n/nfa7ce7fe693b

家ではなく、寺の境内で上演する。
半野外劇、といった趣だ。
会場の下見に行ったが、風が気持ちよかった。眼下に墓地、東京タワーも見える。

昨年末にお話を頂き、「家で出来る」演劇、というコンセプトについて無いアタマを使って、考えた。私が、考えた、という場合それは誤読・誤解・曲解を意味する。アタマが無いのだからそれは仕方ない。
以下は「#家で出来る演劇」公式の見解ではまるでない、小野寺個人の歪んだ考えであることをお断りしておく。

「家で出来る演劇」というのは「劇場でなくても出来る演劇」ということだ。家は日常。劇場は非日常であり、機能だ。芝居を行うというかなり特殊な機能に特化したフィールドだ。劇場で芝居が行われていない時間、それは「次の芝居」が始まるまでのハザマの時間である。

「家」は本来劇場ではなく生活の場である。芝居を上演する特化した機能を本来持たないフィールドだ。だが「家」は寛容である。「家」は用途によって・また時間によって、様々な姿に変わる。「家」で芝居をする。その前後には生活がある。劇場で生活はできないが、家で芝居をすることは出来る。人が・行為が・営為が・すなわち生活が「家」の中では時間を媒介にしてすべて重なって存在しているから。そこを芝居・虚構・演技・すなわち物語という一本の直列な視線でもって貫通する。つまり時間は並列で、機能は直列だ。その貫通の確度について、また考えていた。

5月・6月と、既に2回のプレ稽古を行った。俳優は皆、素晴らしい。楽しく実りのある稽古だったが、私の持って行った戯曲はダメだった。オファーの際、プロデューサーからは、いわゆる【会話劇】の文体を用いて執筆せよ、と厳命された。それで【会話劇】についても考えた。とにかく、考えてばかりいるのだった。

それはいつもとは違う文体で、ということだ。普段の私の劇文体を、私は【会話劇ではない】とはまるで考えてはいない。会話のフォーマットを破壊することで、「喋っていないこと」を考える、それは会話劇を浮上させるキッカケとしてのテキストである。しかしそれが私以外の人間には受け入れ難いロジックだ、という理解も、勿論ある。プレ稽古において、私は私の文体を用いてなお、一般に【会話劇】として許容される境界を探って戯曲を書いた。だがそれは失敗であった。劇団員にも見せたが「いつもと全く一緒」と言われた。チューニングではダメなのだ。その確度では、並列な世界をひとつの現実に射止める膂力がない。抽象の領域に、抽象の台詞では世界が立ち上がらない。並列に存在し、確定しない世界を、一つの事実に固定させる台詞の確度が、求められている。私は怠惰にも、その修行をしてこなかった。

文体を捨てる、ということ。未熟さに向き合うこと。「書ける」方法論で書くのではない。イチから書く。イチから作る。眠っている瞬間も、台詞を書いている。傑作を書くだろう。ご期待下さい。

文体を捨てる具体的なアプローチについては、また次回。(書くだろうか?)


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