又吉栄喜「豚の報い」
私は、漫画や歌集、詩集は読むのですが、小説はあまり読みません。それでもせめて自分の生まれた土地について書かれている小説は読もう!と思い、大学で沖縄の文学についての講義を取りました。以下は、その講義で又吉栄喜さんの「豚の報い」を読み提出した感想文になります。
人は、話を聞いてくれる人を信じる
冒頭で、豚が突然店内に乱入してくるのは確かに驚くが、女性たちがなぜそこまで怯えているか不思議だった。もちろん、驚いた拍子にマブイ(魂)が落ちるかもしれないという迷信は知っている。だとしても、彼女たちの取り乱し方にはどこか不自然さがあったのだ。しかし真謝島行の船の中で、女性三人がぽつりぽつりと身の上話をはじめるあたりから、彼女たちの不安がる様子に合点がいった。自身の不幸を、自分の力ではどうしようもない、見えない何かのせいにして楽になりたいのだ。このことについて、「諭しているのは正吉だが、仕向けているのは女たち」という一文も答えになっている。占い師が占い師たるのは、悩みを抱えアドバイスを求むる迷い人が存在するからである。女たちと正吉、さらにユタや神様と私達も、同じ構造をなしていると感じた。父親の骨を見つけた正吉が、正吉自ら父を拝み、彼を神にしようと思いつく場面にも同じことが言える。神は最初から神ではなく、誰かに信仰された結果が神だったのだ。
食事という行為に潜むエロスと狂気
また、女たちが最後の晩餐と称して豚料理を次々と食べる場面は、豚を食べるという行為に「狂気」と「官能」が内包されていて、とても印象的だった。私たち人間は、生きるために他の生き物を殺して、解体して、煮たり焼いたりして食らう。生きるために他の生物の死をもって食べることが必要で、生きるために、生殖をして子孫を繁栄させなければならない。「食べる」「セックス」「生きる」の三つは、それぞれ全てが相関関係にあることを、この場面から読み取ることができるのではないか。
脆さは強さ
この物語全体を通して、女たちは本当に人騒がせで迷惑な奴らだと思った。しかし、かっこ悪い部分をむき出しにして、傷ついて何かを抱えながらも、少女のまま、まっすぐ生きる姿が愛おしいというのも理解できる。それにしても正吉は、よく彼女たちの珍道中に付き合っていられるなと感心した。正吉が、御嶽は自分が造ったものだと告白する場面では、女たちは怒り狂うのではなく、自分の信じたいものを信じるといった様子で、そこに彼女たちの逞しさを垣間見ることができて、かっこいいなと思った。本気で神頼みの効果を当てにしていたのではなく、自分たちの人生のスイッチを切り替える「きっかけ」や「拠り所」が欲しいだけだったのだ。きっと彼女たちは、最初から神がなんであるかを知っていたのではないかと思った。はじめは、自分勝手でメソメソして情けない、と腹立たしく見えた女たちだったが、私よりはるかに強く逞しかった。彼女たちには「脆くあることができる強さ」や「ただでは転ばず、転んでも立ち上がる強さ」があった。物語の冒頭から不穏な雰囲気を醸していた豚も、精神的にも物理的にも彼女たちのお通じをよくしていて、ハッピーエンドで面白かった。
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