〜勉強する意味〜学校が嫌いでも勉強は嫌いにならないでください
小中時代を振り返りながら、自分なりに得た「勉強する意味」を紹介してみたいと思う。とは言え。私の個性強めゆえ、あまり共感されない可能性高いけれどー
モチベーションが持続する ”自由研究ノート”の威力!
私は親から一度も勉強しなさいと言われたことがないけど、たぶん小学校3、4年生あたりから成績は良い方だったと思う。
でもエンジン全開になったのが5、6年生の時。
2年間同じ担任で、毎回必ず宿題として出されていた「自由研究ノート」にハマった!5mm方眼罫のノートを使ことだけがルール。内容は、漢字でも計算でも、教科以外のことでも何でも良い。量も自由で、私は燃えてたので(笑)、たぶん1日3~5ページくらいやってたと思う(もっとかな?)。1年間だと20冊近くにもなった。
今振り返ると、これ、自律性が刺激されていたんだなと。子ども自身が自分で選んで、自分の意思でやっているのだという実感を最大限にもたせ、管理、強制されていると感じさせない。
興味の赴くままに、家の図鑑を持ち出して植物や動物や天体etc...絵を描いたり説明文をまとめたりもしたけれど、そればっかりでも飽きるので教科学習と半々くらいだったような気がする。黙々と写経のように漢字を書き続けることもあったし、問題を解きまくることもあった。
自分にぴったりの学習スタイルがみつかる
ノートのなかで自由にやっていると、私は文章を読んでそのまま理解したり、記憶に定着させるのが苦手だなーということが分かってきた。
なので、一旦自分の中で咀嚼してデザインし直して、アウトプットする、というスタイルが定着してきた。デザインし直すというのは、要約したり、自分が理解し易い言葉に置き換えたり、概念を図にしたり、手順をフローチャートにしたり、ということ。構造化する癖も付いた。視覚からの情報が入りやすいので、色の使い方を工夫したりも。
そして、こういう試行錯誤がどんどん楽しくなっていった。楽しいからモチベーションが持続する。
過集中タイプのようで、数時間が数分のように感じることもしょっちゅうで、鉛筆を握る手が痺れてきて気付く(笑)
(今はそれがパソコンのキーボードになっただけかもー)
こんなマニアックなガリ勉タイプなので、塾には興味本位でちょっとだけ通ってみものの全く合わず…。先生の高圧的な態度が理解できないし、生徒の目も死んでたし、こんなところに身を置くのは時間のムダだな、となり独学まっしぐらの小中時代。
ちなみに、「友だちと一緒にテスト勉強」とかも無理で、誘われても全部断ってたなぁ(笑) 協調性ゼロ。
だって、ひとりでムフムフやりたかったから(笑)
(こんな人間だったけど友だちには恵まれた学生時代だったよ!←念の為。)
そして、こんなことやってると当然ながらテストの点が取れちゃう。やればやるほど点数を獲得できるので、だんだんゲーム感覚になってくる。暗記系はクイズみたいなもの。授業で新しい公式を習ったら、RPGのなかで新しいアイテムをゲットしたようなテンションである(笑) モチベーションももちろん上がる。
このあたりは、相性なんだろうなと思う。サッカーにハマる子やピアノにハマる子がいるように。毎日練習に没頭して上達するのが楽しい!みたいな。私はたまったま勉強だったんだなー
ただし、これが学校の成績とリンクしたのは中学まで。。
もともと情報処理スピードが速いわけでも記憶力が良いわけではないので、進学校でこんな悠長なことやってたら全然ついていけなかったよ!泣
でも、自分を知り、自分なりの学習スタイルを確立できたのは一生ものだと思ってる。
論理的思考とプロセス重視の伝える算数
私、新卒で3年間だけシステムエンジニアやっていて。と言ってもペーペーのまま退職してしまったのでSEと名乗るのはおこがましいのだけれど(笑)
そんな私でも、プログラミングって論理的思考の上に成り立っているんだなーという事は実感していたし、自身の体験から言えば、そのベースは小中学校の算数の文章問題で十分に培うことができるな、とも感じていた。
小学生の頃から、算数の文章問題を解く時は、私なりのこだわりがあった。
それは、頭の中で行った処理のすべてを1つもはしょらず式に書き出す、ということ。暗算で済むところもすべてすべて!
「あなたの出題の意図を理解してるよー」「こういう意図をもってこんな式にしましたよー」と、まるで出題者と対話してるかのように解くのだ。言うならば、問題を解くための数式ではなく、伝えるための数式。コミュニケーション!もちろん、答えが不正解だった時のトレースも容易になる。
プログラミングというのはコンピューターへの命令文なので、人間特有の「察してね」はまったく通用しない。ひとつでも手順をはしょるとプログラムは動かない。誤魔化しがきかない分、容赦なく鍛えられるんだよね。(だからこの思考に慣れると自分や人の言ってる内容の矛盾にも気づきやすくなるよ)
そして、プログラムというのはバグが発生した時に修正したり、カスタマイズもすることもよくある。作ったら終わり、ではなく、自分以外の人間が手を加えることもあるのだ。だから、自己満足のコーディングではダメで客観的な視点も必要。誰が見ても分かり易い、ということが大事なのだ。
だから、伝える算数は論理的思考を育むと思っている。
学校でも、結果(答え)が合ってるかどうかよりも、そのプロセスをもっと重視するようにしてはどうだろ。(計算力はコンピューターにお任せしたらいいのだから)
小学校でプログラミング教育は必要か?
論理的思考は学校を卒業した後も何かと使えるので、あったら便利なツールだとは思うけど、それってプログラミングという形で必須にする必要あるんだろうか?というのはよく分からない。
文部科学省のパンフレットを要約すると、こんな感じ。
「我が国の競争力を左右するのはIT力!他の国や地域は既に学校教育に導入してるし!日本でもIT人材が不足すると言われてるし!子どもの頃からIT力を育成して、国際社会で戦えるようにしていこ!」
-未来の学びコンソーシアム 小学校プログラミング教育必修化に向けて-より
論理的思考の育成の他に、国のIT人材の育成も目的のようです(こっちがメインなのかな?)。IT力がいらんとは言わないけれど、なんだか国力強化が前面に出て「お国の為に!」感がにじみ出ているのを感じるのは私だけでしょうか…
語学力もIT力もツールであって、そのツールを使って、何を語り、解決し、創造するの?ってところが大事なのでは?学びを積み上げる土台ー自尊心や自信や探求心ーの育成も同時に強化していきたいところ。
一部の天才はITエリート教育を受けているとしても、結局、エリートからの指示待ちの作業員の増産だけに留まるなら、戦後教育と何が違うんだろうか。
知識のデータベースが豊かな方が創造確率が高まる
4、5年生くらいの時だったかな?朝学習で漢字の小テストがあった。「どうしても読み方が分からない~」 その時に、組み合わさった2つの部首から導き出した読みを書いてみたら正解だった!よくある話だろうなんだけど、この時にすごく感動したのを覚えてる!
知識のピースがくっついて新しいものが創造された驚きと感動。ひとつの勉強の意味を得た瞬間だった。知識のデータベースのデータ数が多ければ多いほど、創造したり発見したりできる可能性が拡がるんだ~!!って気づいて、嬉しかったなー
今でも人の話を聞いたり、本を読んだりした時は自分のデータベースがより豊かになっていくようでワクワクする。でも一番面白いのは知識(データ)と自分の体験がくっついた時だ。知識だけだったものが腑に落ちたり、理解が深まったり、新たな価値観を発見したり。
だから。勉強ってすごく誤解されていると思う。どうして学校に行くと勉強に対するワクワクが色褪せてしまうんだろ。どうして、自分の人生を豊かにしてくれるはずの勉強が、いつの間にか他人のためのものになったり、点数だけが評価され過ぎるようになってしまうのかなぁ。すごい損失。
ワクワクベースで、それぞれの興味関心の強い分野で学びを深めていけるシステムならみんなハッピーだと思うんだけどなー
〈おまけ〉小学校の算数のテストは教科書だけで100点が取れるようになっている
自由研究ノートで、毎日毎日なにしよー?と思った時に行きついたのが教科書!教科書の問題やりまくってテストに臨んでたら100点取れるようになってしまった。20数年前の情報だけど(笑)、そんなに変わってないんじゃないかな?
算数の教科書は各単元で例題、練習問題、演習問題がある(今もそう?)。授業で扱われるのは主に例題だけだけど、練習問題は学習要点が凝縮されたものばかりだし、演習問題は応用編で、必須じゃない(だから、これが解けなくても90点くらいは取れる)けど出来たら尚良しレベル。ここを確実に抑えておくとテストで100点が取れるようになっているんだよねー。
わざわざ他のドリルや市販の教材、ましてや塾に手を出さなくても大丈夫なのだ。当たり前と言っちゃあ当たり前なのだけど、教科書に載ってること以外はテストでは問われないのです!