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オレンジジュースとスマートフォン
「Dole」のオレンジジュースを飲んでいると、その紙パックの大きさが丁度僕のスマートフォンと同じくらいのサイズであるということが分かった。
どうりで飲みやすいわけだ。日頃のスマホ依存がこの紙パックを恐ろしいほど手に馴染ませた。
そんな両者はほとんど変わらぬ大きさをしているにも関わらず、それ以外の同一的要素がほとんど見受けられない。強いて言うならば、どちらも「入れ物」だということぐらいだろうか。
僕はどちらにより価値があるのか分からなくなった。生命、労力、人、歴史、質量、おもしろさ。基準をどこに置くかによって価値の天秤はどちらに傾いてもいいような気がする。
古くの人間は大きいモノに価値を見出しやすかったのではないかと思う。あれは、「舌切り雀」だっただろうか。意地悪なお爺さんはより良いモノが入っていると思って、大きいつづらを選んでいたはずだ。
それに比べて現代はどうなのだろう。小さいモノの方が価値を見出されるというわけではないが、小さくても見た目以上のパワーを持ったモノは昔より増えた気がする。
そのように考えてみると、本来大きいはずのモノはスマートフォンだろう。どちらもただの「入れ物」でしかないのならば、より多く入るほうが大きいということになる。
そんな事を書いていると、中身のオレンジジュースが無くなってしまった。これで正真正銘の入れ物だ。
もしも「Dole」が紙パックに広告を募集したら、一体いくらでやってくれるのだろう。
僕はスマートフォンと中身が無くなった「Dole」の紙パックを見て、まるで空と大地だなと思った。
大地の上には空がある。だから両者の数は一緒なはずなんだ。それなのに空の方が大きい。そしてそれなのに、僕たちは大地にいる。
結局昔話は正しくて、大きさに惑わされてはいけないのかもしれない。