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人をなめてはいけない~「怒らない」とされる人たち~

 人をなめてはいけない。僕ら人間は、相手によって態度を変えてしまうこともあるけれど、それは愚かな行為だ。「こんなもんでいいか」という想いは、必ずいつか見透かされると思っていて、誰に対しても真摯に向き合うことが大切である。

 しかしそう口では言っていても、なかなか難しいことも事実。

 長年の付き合いから雑駁に扱ってしまう人や、その優しさに甘えて本来ならばあって然るべき感謝を怠っているような人がいないだろうか。人によって態度を変える。それは「こんなもんでいいか」という想いがその人に働いているからであり、悪い言い方をすれば「なめている」のだと思う。

 「なめている」という感情は、その人が怒らないと思っている節があるから生まれるのではないかと考える。その「怒らない」という特徴を利用し、関係を日々やり過ごしてしまっている。

 僕はバイトなんかをしていると、つくづく「人に対する態度」に目が向く。お客から従業員まで、「人に対する態度」は千差万別だ。

 バイトという空間はとても面白くて、オフィスとはまったく違った多様的な空間だと思っている。学生からおじさんおばさんまでの年齢層がいて、様々な人種、個々のバックグラウンドを抱えた人間がお客を含めて集結している。だからこそ、誰がどのような人間には「いつもと違った態度」をとるのかという部分に目を向ける。

 僕が働いて「ひどいな」と感じることが多いのは、あたまに障がいを抱えたおじさんバイトと、仕事ができなくて小太りで優しいおばさんバイトに対するものだ。

 おじさんの方には、とにかく「ありがとうございます」を言わない人が多い。たしかに言ったところで返事はかえってこないことがほとんどだが、その部分に甘えてなのか、「ありがとうございます」を言わない人がとても多いのだ。

 そしておばさんの方はとにかく「なめられる」。僕の主観でこのようなことを言うのは申し訳ないが、とくに女性陣が彼女をなめるのだ。

 なぜこのようなことが起こるのだろうか、ということについて考えると、やはり「怒らないから」ではないかと思ってしまうのだ。実際にこの二人が誰かに怒ったところを僕は見たことがなく、たまにいる店員に対して横柄な態度をとるお客も、その理由は店員は「怒らない」と思っているんだろうコンチクショーという気持ちである。

 だがしかし、結局のところ僕が抱える「コンチクショー」という気持ちがすべての正体だと思う。どんな人でも、いくら「怒らない」ような人でも、行いに対する相当な見返り・評価がなければ「コンチクショー」と思っているはずだと僕は思っている。

 「あの人は怒らないから大丈夫」。そんなものはウソだ。

 「怒らない」人間が抱える心の中のマグマを、いつそのような人間たちが爆発させるか。突発的な殺人なんかは、こんなことが根底にあるんじゃないだろうか。

 ぬるま湯はいつか凍るのか、それとも煮え立つのか。

 

 

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