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私へのおかわり

6年前に書き綴っていたURLがふいに出てきた。
日頃思った事に加えて、小説などもちらちら。

ふと思えば、高校入学の際の自由課題も小説を書いて提出したな。
そう父に伝えると「読みたい」と言われたが、
物書きを仕事にしてる父にはとうてい見せれるようなテーマの小説ではなかった。

それから三年。
卒業制作では、抽選で入り口すぐのスペースとなり
私の部屋をまるまる持ってきて「私の部屋へようこそ」というのをやった。
テレビから流れる映像や、本棚に置いてある書籍、部屋に飾ってある絵。
全部一から作り、その部屋でくつろぐ自分の姿を誰かに撮って貰った時嬉しかったの覚えてる。

なんか、思い返すと色々と狂った事をしてるなと冷静に気がつく。
その時に書籍化した内容も「生物の多様性となぜ人間は人間としか愛しあえないのか」みたいな。
17とか18歳なりに色々調べて、ざざーって書いてた気がする。

15から一人暮らしをしてる私にとっては、作品を作りやすい環境元にいたと思う。
お蔭様で脳みそはフル回転だったし、朝方近所に映像撮りに行ったり課題のために髪を切ったりもしてたな。
部屋の壁はコラージュ作品や自分で描いた大きな絵とかを自由に飾って。
男性からどう思われたい、とかそういう考え全く持ち合わせて無かった。
あの頃付き合ってた男性は、一体全体自分をどう見ていたんだろうか?笑


先程、6年前の自分の文章を読み返してみたが
まぁ いいとか悪いとかそういう次元じゃないっていうか、
自分が認めた一つの作品だから、元号跨いだ今だからこそ掲載してみてもいいかもね。

昔からそうなんだけど、私自身「恥ずかしい」という概念をいつからかどこかに置いてきたようで
昔、プリクラ撮る時 変顔したりするじゃない?
そういうのを男の子に見られた時、大袈裟に恥ずかしがる女の子の中で
「とは言ってもそれも自分だしなぁ」と表情変えずに立っていた自身を思い出す。
何かを悟ったようにそんな自分を俯瞰で見ていた。

いま、何が一番恥ずかしいかな。
とは言え、6年前の文章や他にも思い留めていた諸々は
内に秘めて、公開しないでいた。

でもそれは恥ずかしいからではない。

見せるに値しない「個人的な」「くだらないもの」なのだと思っていたから。


昨日、
「そんな自分が思ってるほど相手は自分の話聞いてないよ」という話になり
そう言われた言葉と、いま考える事がリンクしている。

・掲載する
・誰かに見てもらう

それって、どこがゴールなんだろう?
見てもらって、何か心を動かす事?
「こういう人なんだ」って自分を理解してもらう事?
たくさんのいいねも必要ないし、閲覧数も気にならない。


『表現者であり続けたい』
というのが、10代からの大きなテーマだけど
表現者としてのあり方、存在の仕方について
昔の文章と睨めっこしながら考えるそんな4月の終わり。

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