短編小説 『夏を待つ』
ソウ、と音を立てて風が吹きすぎる。
つかの間熱をさらわれた皮膚の感覚が、肺まで支配して胸が空く。7月だ。じり、と湿気のベールを通して照りつける陽は、夏と呼ぶにはまだ弱くて、じれったいような、それでいて、まだ待つ楽しみが残されていることに安堵するような。本当に、なんと7月なのだろう。正しい、夏を待つ季節。
§ § §
私は伯父が好きだった。
空に漂う雲のようにつかみ所のない人だった。幼い私はよく伯父にまとわりついては、日がな一日他愛ない会話や突拍子のない物語に費やした。伯父の話す声は今でも、レトロな蓄音機から流れる音楽のように、セピアの響きをもって打ち寄せる。言葉を、慈しむ人だった。その愛で方は、少し変わっていたけれど。伯父はよく、言葉をソーダの泡に喩えた。二人とも、よく冷えたソーダ水を好んで飲んだからだ。氷の触れる音が、沈黙に響く。
言葉っていうのは、ソーダの泡みたいなものだ。コップの底を離れて水面に浮かぶまでに口に出さなければ、ぱちん。とはじけてしまう。とても曖昧で美しいものだよ。無数の泡が、気紛れに浮かんで来る。それを壊さないように追いかける。次から次へ。
伯父は語り出すと視線を遠くへやる。何かを見ているように、頬を輝かせて。私はその、私以上に少年らしい顔を好もしく眺める。ソーダは、伯父の言葉と共に私を満たす。
あぁ。ほら、ちょうど君がそうやってソーダを流し込むみたいに。胸にしわしわとする心地が広がるだろう?
その、なんとも爽やかな、満たされた涼しさが、言葉というものさ。
「じゃあ、言葉は夏だね。」
伯父の話が私に帰ってきたことに少し興奮して私は応える。ソーダの氷は、解けながら揺れる。微かにチリ、と音を立てる。
「夏の風鈴みたいだ。温度は変わらないのに、涼しくなる。青空じゃなくても、入道雲を思いだす。風が気紛れに鳴らしていくけれど、気がつくとすぐに、消えちゃうんだ。涼しい感じだけ、残って」。
そこまで一息に言ってしまって、自分の想像に浸る。伯父も同じように、一呼吸、目を閉じる。私の全神経は伯父の動きに向けられる。
ふむ。いいね。それも、言葉だ。ねぇ、夏は好きかい?
つ、と身を乗り出し、悪戯な笑みを浮かべて聞く。折りしも季節は、夏に向かい加速度を上げていくような、じっとしていると気が急くような、そんな時期に差し掛かっている。私のような子どもにとっては、待ちに待った季節の到来をじりじりと焼かれるように感じる毎日である。もちろん、答えは精一杯のうなずきとともに返す。
「好き!」
じゃぁ、今度海に行こうか。もっと、空が一等青くなる頃になったら。君は、早めに宿題を片付けてしまいなさい。そしたら、日記帳と水着をもって海へ、だ。僕は…そうだな、スケッチブックと絵の具を持っていこう。後は弁当があれば申し分ないな。夜が明けないうちに家を出て、海からの日の出を眺めるのもいいと思わないか?…午前中は思い切り泳いで、疲れたら弁当を食べる。食後はどこか日陰を見つけて僕はスケッチをする。君は、もうひと泳ぎするなり、一緒に日記用の絵を書くなりすればいい。きっと素敵な日記が書けるだろう。ん、どうだい?
是も非もあろうはずが無い。私はすっかり潮騒の中に投じていた心を引き戻して満面の笑みを浮かべると、無言で小指を差し出した。約束は成立だ。
それから会うたびに、私たちは海へ行く算段をした。どこの海に行くか、どうやって行くか、待ち合わせはこの時間、海に着くのは何時ごろ、お弁当にはウィンナーを入れる、おにぎりの具はこう、絵の具は二人分で、スケッチブックは各自持ち寄ること、飲み物は水筒の麦茶と、海の家できっとラムネを買うこと。帰りの時間は決めない。疲れたら昼寝が出来るように、ひざ掛けを一枚。海でひとつずつ、思い出の宝物をみつけること。これは、お互いに交換する約束をした。
非の打ち所のない約束だった。
空は日に日に青さを増していった。
§ § §
約束の日の海がどんなに素晴らしかったか。
しかし私は、その思い出を語ることができない。結局、私たちは海へは行かなかったのだ。より正確に言うならば、その後も私たちが海にいくことはなかった。ずっと、一度も。
その夏、何をして過ごしたのか。うまく思い出せないが、遠ざかる夏の後姿だけは覚えている。夏休みの終わりの日、私はひとり遊んでいた公園の砂場でいくつかの貝殻をみつけた。それらは白く乾いていて軽く、なんだか酷く寂しかった。貝殻はきっと気づかないうちに隔絶されたのだ。波に洗われることもなく、海のことなど忘れてしまった砂場に。そう思うと埋め戻すのは忍びなく、私はそっと貝殻をポケットに詰め込んだ。見上げると鱗雲が浮かんでいて、すっかり空は色あせていた。ぼんやりと、夏は私を置いていくのだと思った。いつごろ空は一等青かったのか。実際のところ、海のことを忘れてしまったのは私の方だったのかもしれない。
そのうち、叔父の家に行くこともなくなった。子供だった私は、著しい成長と同じ速度で、あの約束からも、叔父の家からも遠ざかっていった。成長するほど、楽しいことも煩わしいことも日々に溢れていて忙しく、長いこと思い出を振り返ることもしなかった。
ただいつからか、この季節になるとふと叔父のことを思い出すようになった。あの頃交わした言葉が、ソーダの泡のように浮かんできては、胸の中ではじける気がした。
しわしわと、その感触を反芻する。そのうちに約束は、まるで先程結ばれたかのように、真新しい期待感を持ってそこに現れる。夏が来たなら、この夏こそ、海に行くのではなかったかと、ぼんやりと考える。
小さな私はもういない。けれど、この胸にはまだ約束があって、確かに来るはずだった夏が、今も鮮やかに描かれている。
空が一等青くなる頃に―。
叔父の声が響く。
私は、じりじりと夏を待つ。
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