「適材適所」について考える

「適材適所」のイメージ

適材適所の辞書的な意味は、
「その人の能力・性質によくあてはまる地位や任務を与えること」である。
また、適材適所というとビジネスの現場で使われることが多く、ネットでこの言葉を検索すると、1つの会社においてどのように適材適所を実現するかについてまとめられたものが多いことに気が付く。(ちなみに、このような、1つの会社における適材適所の実現方法についてここで詳しく触れることはない。)

辞書的な意味においても、ビジネスの現場で使われている意味においても、とにかく一般的にとらえられている適材適所というものは、自分以外の誰か(何か)の作用によって主に実現されるものであるようにみえる。私も何となくそのようにとらえていた。

しかし、適材適所に関して書いてある書籍を読みつつ、私なりに適材適所について深く考えてみると、本当に適材適所が実現されるにあたっては、自分以外の誰かや会社などの組織が関与することだけでなく、各人が自発的に自身のことを考え、自身がどうしたいのか?何が出来るのかを考える必要も大いにあるのではないかと思うようになった。むしろ、会社などの組織や国は、各人にそういったことが可能になる環境を提供することに注力したほうがよいと考える。イメージとしては、「適材」が「適所」を求めること、そしてその環境が整うことが私の考える適材適所である。そういった意味で、私が考える適材適所が適用される範囲は、1つ1つの組織と言うより、この国全体となる。

そもそもなぜ、適材適所について考えようと思ったか?

何らかの組織に属していれば、人はそれぞれ何らかの役割を与えられ、その役割に沿った仕事をすることになる。その中で「この仕事は自分に向いている/向いていない」と考えることがあるだろう。私の場合は、就職活動に失敗して、明らかに自分が苦手であろうと感じる職業に就くしかなかったことに加え、やはりその仕事が向いていないとわかったということもあり、より強く、仕事の向き不向きについて考えたのだと思う。その結果、「もし、人がそれぞれ自身が得意なことを、自身に適した場所でおこない、その力が存分に発揮されたなら、素晴らしい世界になるのではないか」という思いが漠然とわき、「適材適所」について考えはじめるようになったのである。

人が生活の糧を得るために不得意なことをして苦しむのは、その人の人生の時間の浪費であるし、不得意なことをするのだから成果も大して上がらず全体の利益にもつながらず、何も良いことがない非常に無駄なことだ。それを、身をもって体験したし、そういった場面に遭遇もした。そうした中で、さらに適材適所について深く考える機会があった。

1年間だけ、社会人向けの塾(社会的課題を解決しようとする志を持った、あるいは志が芽生えた人が行く感じのもので、いわゆるビジネススクールとはすこし違うかもしれない)に通ったことがある。塾の最初の方の課程で、自分の志についてまとめ、無作為に作られたチーム内で発表しあう場があった。そこで私は上記の漠然とした思いを自分なりにまとめて発表したのだが、そういうのは自身の今の職場でやればよいと他のメンバーに言われてしまった。私が言っていることは、社会的課題を解決しようとする志とは別物であると指摘されたのだと思われる。その当時の私は他のメンバーが納得できるような説明もできず、「そうですね」と同意してみせたものの、どうしても違和感が残った。他のメンバーが言うことはもっともなことだし、各職場でそれがなされればもちろん良い結果につながるだろう。しかし私が考えたことは、1つの職場で実現できればめでたしめでたし、というものではないとその時から感じていた。だからこそ、今、適材適所を考えるにあたっては、その適用される範囲をこの国全体、としたのだ。

それからしばらくは適材適所について意識的に考えることなく過ごしていたが、子育てがはじまったことがきっかけとなり、また考えるようになった。

子育てをしはじめて、人ひとりを育てようとすることは尋常なことではないことだと思い知った。それまでやったことのない、私の意志だけではどうにもならないことをおこない続けるには、私自身が良い状況にいなければいけないことに気が付いた。私が良くない状況にあれば、そのこと自体が子どもに直接悪い影響を及ぼすことになるからだ。親は、特に、主に子育てを担うことが多い母親は、子どもにとって最大の環境なのである。私が良い状況にあるとはどのようなことなのか?を考えていくと、私はどうしたいのか?という問いにたどりついた。

私はどうしたいのだろう?どう生きたいのだろう?
私の人生のそれまでのことを思い出したり、過去に書き留めたメモを洗いざらい引っ張り出して、おそらく人生で初めて真剣にその答えを探した。探した結果、一番多く考えていたことが「適材適所」に関する事だった。

最後に適材適所について深く考えてから10年以上経ってしまったが、それでもまだこのことについてもっと考えてみたいという思いがあった。そうであれば残りの人生で
「もし、人がそれぞれ自身が得意なことを、自身に適した場所でおこない、その力が存分に発揮されたなら、素晴らしい世界になるのではないか」
このような、適材適所が実現される方法を見つけてみたい。そう思ったのである。

適材適所が実現したらどうなるだろうか

なぜ、適材適所を実現する方法をみつけることがしたいのか?
根底には世の中をより良いものにしたいという思いがある。世の中をより良くしたいと思うのは、私自身もより良い状態でありたい、つまり、幸せになりたいと考えるからだ。自分一人の幸せは、実は自分一人では実現しない。自分の周りの人もそうだし、周りの環境がより良いことも必要だろう。となると結局全体が良い状態になることを目指すことになる。自分が幸せになりたいから、世の中をより良いものにしたいと思うのである。世の中をより良くする方法は無数にあるだろうが、私が考える、世の中をより良いものにする方法とは、「適材適所を実現すること」なのである。

世の中をより良くするとはどういう状態だろうかと考えてみると、各人が幸せを感じられることが必要であろうかと思う。
人の幸せはそれぞれであるが、おそらく大方の人が自身の幸せが何であるか把握できていない。
多くの人は、生きるためにやりたくないことをやらなければならない。そのためにほとんどの時間を使い果たし、自分自身を把握することすらままならないからだ。
適材適所が実現できれば、やりたくないことをやり続けることで精神を削られることはなく、自分自身にとって無駄な時間を有益な時間と思わされたり、有益な時間を無駄な時間と思わされることがなくなるだろう。
その結果各人が、自分自身を正しく把握する心のゆとりや時間をつくりだせる。そのゆとりで、各人は自らの幸せについて考えることができるのである。

私が考える適材適所

以上を踏まえて私は、「適材適所」を辞書的な意味の他に、「各人が幸せを追求する環境づくりの1つ」と定義する。
各人はもっと自分のことを考え、自分にとってよい状態は何かを自分で考え、それを見つけられたなら、そしてそれを達成できたなら、各人が幸せを感じることができ、世の中全体もよい方向に向かうのではないかと考える。

このように定義した「適材適所」を実現するためにはどうしたらよいか?それを少しずつ考えていきたい。

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