すべての全部にあまねいて 2022/06/30
日記
・連日同じことを書いているけど、暑すぎるんじゃないか。洒落にならない。去年や一昨年はここまで暑くなかったような……と思って日記を見返したら、そもそも家から出ていなかった。毎日お天道様の下に出るのは2年ぶりなのか。そりゃ暑く感じるわ。
・日傘で日光を遮るのと、こまめな水分補給を徹底するだけでだいぶコンディションが変わってくる。あと、しっかり汗を拭くのも大事。今日だけで1.8Lの麦茶を飲んだ。ペットボトル3本分だ。でも、それでも全然足りないというか、まだいける感じがあるからもっと飲んだほうがいいんだろうな。
・友人と散歩をしながらアイス屋でソフトクリームを買った。店内で食べることもできたのだけど、せっかくだから外で歩きながらゆっくり食べようかと一歩外に出た瞬間、猛烈な勢いで溶けだしてにっちもさっちもいかなくなってしまった。3秒で手がベットベトになり、写真を撮る隙さえ与えてくれない。溶け始める前に食べ終わっているだろうと余裕の構えをとっていたので、二人してどうして……どうしてこんなことに……と泣きながら、タラタラ命をすり減らし続けるソフトクリームを舐めた。先々週くらいに食べたときは外でも余裕だったのに……。夏の暑さを侮っていた。
・白いソフトクリームの液がついた手を見て、シンジくんじゃん……と不規則発言をしてしまったことを今になって後悔している。
・最近、「全部」とか「全て」という言葉が気に入っていて、何かにつけて使おうとしてしまう。ただ、そこでの「全部」や「全て」が指しているものが、本当に厳密な意味での「全部」「全て」であることが重要。説明が難しいけど、「全ての人間は美しい」と言うようなとき、実は「全て」は全てを指していないことが多い。そこでの「全て」が指すのは、その発言者が最大限観測可能な範囲にいる人間や、その発言者の頭の中にある、漠然とした総体としての人間だったりする。
・そこに生まれたばかりの新生児や未開の部族や極悪非道な犯罪者なども入っていることが、私にとっては何よりも重要で、とにかくこの宇宙に存在している人間の1人も取りこぼさない、地球の人口を最後の一桁まで省略しない、という気持ちで「全て」と使ってほしい。「全て」が修飾する対象のあらゆるものを一切の遺漏や例外なく包括しているのが望ましい。「全て」とか、そういう言葉には空恐ろしいほどの壮大さや巨視性、超越性が含まれているのだから、そこを切り捨ててほしくない。
・そんな本当に厳密な意味で「全て」と使っている場面なんてあるのか?という話なのだけど、最近だと『シン・ウルトラマン』に「君たち人類の全てに期待する」というセリフがあってかなり感動した。これは過去や未来、善意と悪意、希望と諦観など、相反するものも併せ呑んで超越的に人類を捉えているウルトラマンだから言えることだと思うし、作中の状況的にも本当に人類の"全て"を行使する以外に道がなかったので、理想の"全て"だった。
・あと、オザケンの歌詞にはここで言うような「全て」が多く使われている(またオザケンの話かよ)。『運命、というかUFOに(ドゥイ、ドゥイ)』では
『彗星』では
なんて書いている。『ウルトラマン・ゼンブ』なんかは丸々「全部」について歌っていて、
というめちゃくちゃにかっこいい歌詞がある。小沢健二の「全て」とか「全部」の使い方は、言葉に含まれている超越性を惜しみなく表現していて震える。
・あと、「全て」の大事なところは具体性がないところだと思う。厳密な意味で「全て」と使うと、指し示すものが膨大すぎて説明のしようがなくなる。上に書いた「全ての人間」なんかも、全人類一人一人を指しているのだから、「全てって具体的に何を指してるんですか?」と質問されても、その詳細を答えることは不可能に近い(全人類の名前を言っていけばいいが、物理的に無理)。逆に言えば、「全て」が指し示すものを聞かれて、簡単に答えられるようでは、本当の「全て」ではないということだ。「君の全部が好きだよ」と愛を投げかけて、「え〜全部ってなんのこと?」と返された時、「顔も性格も〜」なんて説明できてしまったら、それはもう、全然全部じゃない(変な表現)。それを言うだけで、何もかもが済み、指し示しの焦土が出来上がるのが「全部」や「全て」であるのだから。
・ただ、抽象的であると同時に、取りこぼしなく、あらゆるものを示しているのだから、語義上では具体的であるとも言えるのだけど……。
・これ、後日読み返したときに一切意味がわからなくなっているだろうな。