🔰短歌を始めるまでのこと
(Ver.4.1)
2018年から短歌をある会誌に投稿することとなりました。掲載されればこちらでご紹介したいと思いますが、経緯などを補足的に書いておこうと思います。
一番最初に覚えたのは、中学の教科書で見た有名すぎるくらい有名な歌。
・やはらかに柳あをめる 北上の岸辺目に見ゆ 泣けとごとくに (石川啄木)
・白鳥はかなしからずや空の青海のあをにも染まずただよふ (若山牧水)
学校の明るい元気な友達ばかりの中で、自分も明るく振舞っていた時に、この二人の歌集を読んで衝撃を受けたのです。
作ってみたのは高校一年の時、といっても国語の授業中たった三首でした。ヒガンバナ=曼殊沙華の歌を作ったところ、珍しく先生に褒められることとなり、「続けて作ってみたらどうだ?」と声を掛けられたのが印象に残っています。
ところが、同じ先生の授業で百人一首の丸暗記を強いられ、その苦痛から和歌恐怖症に近い状態になってしまったのです。文法以前に、こひの云々の意味がよくわからなかったからかもしれません。
その後は受験勉強や学校生活についていけなくなり、詩集を持って外をぶらぶらすることもありました。
幸い進学できましたが、望まずして(当時はそう思っていた)バリバリの文系の学校に入ってしまいました。文芸の同人サークルに入り、エッセイや詩を書くこともありました。卒業はしたものの、希望の職業はあきらめることとなり、「学校で勉強した意味はあったんだろうか?」と何年も悩みました。
二十代半ば、病気で家にこもり、時々アルバイトなどをしていた頃に、短歌らしきものを毎日ホームページに載せていたことがあります。これはあくまで内輪な近況報告のようなものでした。ただ、学生の頃から二十年近いホームページの運営は文章の勉強に役立ったと思います。
仕事は小さな法人の事務職でしたが、ひょんなことからグラフィックソフトで広報物を作る担当となり、編集者のまねごとを何年かしていました。構成、取材から印刷にかける状態にするまでほぼ仕切っていたので、良い経験になったと思います。ところが結婚しワーキングマザーをしていた時に、症状が再発して、それ以降は専業主婦となりました。
手先が不器用でコミュニケーションも得意でない自分にとって、主婦業・母業は最も苦手な仕事でした。せめて少しでも好きなことをしたい、家族以外の人の役に立ってみたいと思い、童謡などのボランティアを始めました。同じ趣味を通して出会った人達とはすぐ打ち解け、子供達やお年寄りの笑顔も見ることができて、いくらか自信を取り戻しました。
そして、再就職に向けて動き出そうとした矢先に、他県に住む父が急病になり、母も介護が必要になったため、毎週地元に通うようになりました。そのような中でちょっとした偶然から短歌と再会しました。歌詠みの伯母からすすめられ、父もたまに詠むようになったのです。
私も、父に写真入り歌集をプレゼントしたりするうちに、無意識に短歌への関心がわいてきたのだと思います。ある日半ば衝動的に、ネットに上がっている最近の歌を調べはじめ、数冊の本を読んだ程度で短歌会に申し込みました。半年か一年は鑑賞だけのつもりだったのが、すぐ投稿会員に変更し、最初の会誌が届く前に出詠してしまいました。
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