大学バレーという経験 その1
私はサッカーJ2ブラウブリッツ秋田の傘下にできた育成のためのバレーボールクラブの代表兼指導者をしています。
noteにはバレーボールを通して経験したことや、子育てやバレーボールの指導を通して感じたことなどを綴っています。
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高校3年生の秋に国体を終えて、その後すぐに大学の推薦入試を受けて、自分の感覚的には割とあっさり大学が決まりました。
以前にも書きましたが、そこに自分の意思はなく、大人同士で勝手に決められていました。
特に私の父は私を教員にさせたかったようで、体育大学への入学を強く勧めてきました。
もしかしたら私が小学生の頃体育の成績が「2」だったことを知らなかったのかもしれません。
そんな感じで、私は特に高校バレーに区切りもつけず、その延長のような感じで大学バレーへと突入したんです。
高校の卒業式が終わったその日の夜行列車で東京へ向かい、入学前からバレー部の合宿に合流しました。
入学前にもかかわらず、先輩たちはとても厳しく、初日から「とんでもないところへ来てしまった」と思いました。
プレーそのものよりも覚えなくてはならないことがたくさんあったからです。
入学後は特に、先輩への挨拶に始まり、ボール渡しの仕方、管理物(バレー部が管理している備品全て)の扱い方、パス練習のペアの組み方、レシーブ練習のグループ分けの調整などなど、少しでも手際が悪いと練習が終わり次第集合させられて、いつも怒られていました。
高校生まであまり上下関係の厳しくないところで過ごしていたので、なかなか上手に立ち回ることができませんでした。
同期の中にはそういうことに長けている子もいて、そういう子は先輩たちにとても可愛がられていました。
私はいつも「ぼ〜」っとしていて全然気が利いていなかったので、いつも先輩たちに目をつけられていました笑
正直プレーに集中している場合じゃありませんでした。
「ねぇ、何考えてやってんの?」
「やる気あんの⁈」
「もっと声出せよ!」
「こないだ(いつのことかわからない)私の近く通ったけど挨拶なかったよね!」
「ぜんだいみもん…」
なんか…毎日そんなことばかりでした。
(注)現在バレー部はもうこんなことはありません。
ただ、なぜか基本的に4年生の先輩たちや2年生の先輩たちは本当に優しかったです。
1年生の頃はそれが救いでした。
プレーヤーとしては、入学前の合宿に参加してすぐにスタメンに入りました。
先生は私をセンタープレーヤーとして期待していたようでしたが、私は頑なにレフトだと主張しました笑
両方のポジョンを試され、結果的に「やっぱりレフトだなぁ」と納得してもらいました。
そうして元々スタメンだった先輩のポジションを奪ってしまうことになりました。
もしかしたらそういうことも先輩たちの反感を買うことになったのかもしれません。
そういったこともあり、入学直後にはもう既に日々の練習が嫌で本当に苦痛になっていました。
そんなある日、先生に呼ばれました。
「カコ、お前をユニバに推薦しておくよ。」
その時の私の反応は「??はぁ」でした笑
何しろ大学バレーというところを知らなさすぎて、ユニバシアードという言葉さえ知らなかったんです。
「ん⁇なんの推薦なんだろ〜?」
今にして思えば私にとってものすごいチャンスが巡ってきてたのですが、毎日の練習が嫌で嫌で仕方がなかった私にはそれが届いていませんでした。
そんなある日。
練習中に足首を捻挫しました。
怪我をしたシーンは覚えていませんが、みるみる腫れていったことだけは鮮明に記憶しています。
病院に連れて行かれると、「靭帯が切れていますね。ギブス3週間巻きましょう。」
そういう診断でした。
その時私に最大のチャンスが来ているときちんと理解していたら、どんなことをしてもギブスを巻かないで、早くプレーヤーに復帰させてほしいとお願いしていたかもしれません。
それなのにその時の私は「あぁ、これで休める」そう思っていました。
〈続く〉
※このお話は私が学生当時の昭和の時代のお話です。
現在の東京女子体育大学は全く雰囲気が違います。
先日も練習の様子を見てきましたが、先輩後輩がとても仲良く練習していました。
誤解のないようにお願いいたします。
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