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コジ 第6話(完結)

第三章 再びマンション
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 目を開けると、一瞬自分がどこにいるのかわからなかった。
 薄暗くて、常夜灯が点いている。背中にはやわらかいベッド。陽射しをたっぷり吸い込んで、あたたかい匂いがする。
 ああ、いつもの寝室だ……と気がついて、そこでがばっと跳ね起きた。
 部屋を見回す。誰もいない。
 自分を見る。ぼろぼろだった。かろうじて、股間にどうやらかつてスーツだったらしきものをつけている。この服も、一緒に作られた仲間のどれよりも壮絶な最期を自分が遂げるとは、思っていなかっただろう。
 どっと記憶が押し寄せてきた。体中の痛みとともに。
 ナキ、醜女、火之迦具土、黄泉の軍勢と八種の雷神、そして須佐之男命。この短い時間に出会ったものたち。それらと戦って……で、どうしたんだっけ。
額に手を当てて思い出す。
「そうだ、奈美里!」
 最後に辿り着いたところで奈美里らしき人影が見えて、それで駆け寄っていこうとしたんだけど、見えない壁にぶつかって。で仕方ないからそこで話しているうちに、妙な女が奈美里の近くに現れて……そこで記憶は途切れていた。
「奈美里!」
 ベッドから飛び出してドアを開けると、そこには、リビングのいつものテーブルに座っている奈美里の後ろ姿があった。
 薫の気配にくるりと振り返る。
「あ、起きたんだ」
 何気ないその口調に、薫は止まってしまった。目が覚めたときには、今までの出来事は全部本当に起こったことだと確信していた。でも、やっぱりうそだったんじゃないかと思った。
 やっぱり全部、夢だったんじゃ。
 でも奈美里は、薫の異様な格好にも驚いている様子はない。
「シャワー浴びてきたら? 私はさっき、浴びたから」
「あ、う、うん……」
「着替え、出しておくから」
「う、うん」
 薫はバスルームへ行った。奈美里はわかっているのだろうか。薫が何で汚れているのか。

 シャワーを浴びて、ようやく現実世界に帰ってきた気がした。
 さっぱりして薫が戻ってくると、奈美里がテレビから薫に視線を移した。
「お腹空かない?」
「お腹? あ、うん。すいた」
「そうだよね、私も。でも今日はご飯作る途中で出ちゃったから、準備できてないの。だからカップラーメンでも食べない?」
「う、うん。食べる」
「じゃあ、今準備するから」
 奈美里がキッチンに立った。薫はテーブルのいつもの席に座った。

 食べ終わって片付けを終えると、奈美里は、
「疲れたね。寝よ」
 と言って欠伸した。とうとう薫は口にした。
「あ、あのさ……奈美里、ちゃん。あの……」
 奈美里は薫を黙って見つめた。言葉は、それで止まってしまった。
「もう寝よう、薫。いろんなことは、明日にしよう。もうこんな時間だよ」
 そう言われて、薫は初めて時計を見た。時計は午前四時を少し回ったところだった。ということは、あれから七時間くらいしか経っていないことになる。
 信じられない。もう十年も、あの中をさ迷っていた気がするのに。
 急に疲労を感じた。今にも倒れて眠り込んでしまいそうだ。足の裏がじんじん痛む。そういえば、歩くのももうやっとだったんだ。
「今日はもう、仕事は休みなよ。私が朝、会社に電話しとくから。あんなことがあったんだもん、一日くらい休んだっていいよ」
 ああ、助かる……。そうだ俺、あんなに大活躍したんだ。
「ああ、ここで寝ないで。ベッドまではなんとか歩いて。ね」
 うん、わかった。歩く。だから奈美里、起きたときそばにいて。
 頬を差す陽で目を覚ました。時計を見ると、すでに針は十四時に近い。
「十時間も眠っていたのか……」
 ゆっくりと体を起した。ベッドの左側を見る。いつもなら奈美里ちゃんが眠っている場所だ。だが今は、寝乱れた薫の布団しかなかった。シーツを触ってみたが、わずかな温もりも感じられない。
「もう起きてるのかな」
 それとも……不安になり、起きてドアを開けた。
 テーブルに座って、昨夜と同じようにテレビを見ていた奈美里が振り返る。
「おはよう。っていっても、こんな時間だけど」
「お、おはよ……」
 パジャマ姿でこたえながら、奈美里の笑顔に漠とした不安を感じた。奈美里ちゃんの朝の笑顔は、あんな風だったっけ? 
「お腹、空いてる?」
「少し空いてるかな……」
「じゃあ今用意するから、顔洗ってきたら?」
 そう言うと奈美里は、キッチンにいっててきぱきと朝食の準備を始めた。その様子から彼女はとっくに目を覚ましていたことがわかった。
 顔を洗って洗面所から戻ると、サラダと目玉焼きとパンといういつもの朝食に加え、照り焼きチキンの皿が置いてあった。肉の焼ける良い匂いが、食欲を刺激する。
「きのうの夕飯にしようと思ってたの」
 奈美里が言った。
 向かいに座る彼女の様子をそっとうかがいながら、不安を抱えつつ薫は席に着いた。いざ食べ始めると、どんなに腹が減っていたかを思い出し、箸を運ぶスピードがみるみる速くなる。
 奈美里の前にはコーヒーのカップしか置かれていない。
「奈美里ちゃん……は、食べないの?」
「私はさっき食べたから。早く、目、覚めちゃってたから」
 それで、何で外出用の服を着ているの。

 食べ終わると、ようやく人心地がついた。
 向かい合って、二人で奈美里が入れたコーヒーを飲む。
「あれって」
「え?」
「あれって、あの二人のゲームなんだって。伊邪那岐命と伊邪那美命の。あの二人は、ほら、古事記に出てくる昔の神様で、日本の国造りをした神様なのよ。前に話したことあるの、覚えてない?」
奈美里に言われて、必死で記憶をさぐった。イザナキとイザナミ、聞いたこと  はある。が、……詳しくは忘れてしまった。
 そうか、やっぱり神様だったのか、あの男。
「伊邪那岐命と伊邪那美命は、二人でいろいろな神様を生み出して国造りを進めるんだけど、そのうち伊邪那美が火之迦具土を生んだときに、焼け死んじゃうのね。悲しみに暮れた伊邪那岐は、伊邪那美を追って黄泉国に行くんだけど、伊邪那美はもう黄泉の住人だから元の美しい姿じゃないの。それで驚いた伊邪那岐が地上に逃げ帰ろうとして、伊邪那美が怒るの」
「そう」
「伊邪那美は、黄泉国の醜女や雷神を使わして、伊邪那岐を追わせる」
「そうなんだ……。それでどうなるの」
「伊邪那岐は伊邪那美から逃げ切って、黄泉を脱出しておしまい」
「…………」
「……あの二人がその本物よ。私たち、黄泉に行って古代の神様に会ったの」
「……すごいね」
「……でもね、もう許して欲しいって言ってるんだって、伊邪那岐ことナキが。自分が悪かったからって。ナミ、伊邪那美ね、がそう言ってた。でもそんなに簡単には許せないって。それはそうよねえ、女の醜さに逃げちゃったんだもん。自分からやってきたくせに。……それで、二人で決めてゲームをしてるんだって」 
「ゲーム?」
「仲違いして、女の人が絶望しちゃったカップルを黄泉に連れてきて、闇の中で男の人ががんばって女の人を探し出して、ナミの仕掛けた敵も倒して、女の人の心を動かすことができればナキの勝ち。できなかったらナミの勝ち」
「…………」
「そのゲームで男の人が百勝したら、伊邪那岐の勝ち。そうしたらもう、ナミはナキを許してあげる」
「じゃあ俺たち、ゲームのコマにされたんだ」
「そうね。でもいいんじゃない」
「……そうだね」
 薫は肝心なことが聞けなかった。それで、俺たちの結果はどうだったの。
 奈美里は黙ってしまった。カップから立ち上る白い湯気だけが、自由に部屋を動き回る。
 奈美里は立ち上がり、寝室へ入っていくとすぐに出てきた。手に紙を持って。
 すぐにそれが何だかわかった。そんなものはテレビでしか見たことがないにも関わらず、わかってしまった。
 奈美里は無言で、その紙をテーブルに置いた。薫のほうに向けて。緑の文字で「離婚届」と書いてある。すでに「妻」の欄には、奈美里の署名捺印が押してあった。
 目の前が真っ暗になった。まるでさっきまでいた黄泉の世界のように。
「奈美里……」
 自分でもひどく情けない声だと思った。ついさっきまで敵たちと戦っていた勇猛さは、微塵もない。
「奈美里……見てたんでしょ? 俺のこと、ずっと……」
 奈美里は頷いた。
「じゃあ何で……。俺、がんばったんだよ。自分でも信じられないくらい。奈美里のためだよ」
「そうだね。薫、がんばってくれたね。ちょっと、すっごく、驚いた」
「………」
「ホント、カッコ良かったよ。うれしかった」
「じゃあ、何で……」
「…………薫、私のこと、好き?」
「好きだよ!」
 思わず声を荒げた。理不尽に痛い目に合わされて、たまっていたものが噴出する。
「好きだよ、奈美里! だからあんなにがんばったんじゃないか! 好きじゃなきゃできないよ! 俺、本気で死ぬかと思ったよ。あんな、わけのわからない怖いところにいきなり連れてかれて、戦わされて」
「…………」
「全部、奈美里のためじゃないか! 奈美里に逢いたかったからだよ!」
 はあはあと肩で息をする。ずっとやりきれなかった憤懣を、ここで奈美里にぶつけるべきではない。とわかっていても押さえられなかった。
 叫ぶだけ叫んでしまうと、薫と奈美里は目が合った。その瞬間、薫はしまったと思った。
 しまった。奈美里は今、薫の妻の心じゃないんだ。
 薫の激昂を目の当たりにした奈美里の目は、冷静だった。
「……。奈美里を、一番、愛しているよ……本当……」
「うん……きっと本当だと思う。薫は、私のこと愛してくれていると思う」
「奈美里……」
「それなら、何で!」
 奈美里の声が初めて大きくなった。
「何で、繰り返すの!」
 薫の体が硬直した。
「……一時の過ちだなんて。違うでしょ……」
 奈美里は泣き出した。薫は自分を殴りたくなった。
 知ってたんだ……。
 動けなかった。あの闇の世界で出会ったどんな怪物たちよりも、重くて暗いものが自分に襲い掛かろうとしている。
「でも、薫に何も言わなかったよ。だって好きだったし、それに私たちの生活、壊したくなかったから」
 私の幸せ、私の生活。この快適で安楽な、マンションでの主婦生活。壊すくらいなら、ちょっとくらいは我慢したほうがまし。それに、これをなくしちゃったら、私に何が残るの? 
 そう思っていた。
「でもダメだった。薫はまた不倫した。しかも、前のときよりずっと長く。それでも我慢してたけど……」
 でもつらくないはずがない。どれだけの長い夜を過ごしただろう。
『おくさん』
 あの言葉で天秤はひっくり返った。だからもう、死ぬことを選んだ。未練はない。それより楽になりたかった。
 見えない灰色のものが薫を取り巻いていく。どうしたらいいのかわからない。いっそ闇の世界のような、形のある敵と戦うほうがいいとさえ思った。
「奈美里ちゃん……もう、本当に浮気しないから……」
 自分でも陳腐なセリフだと思った。テレビでこんなセリフを口にする男が出てきたら、絶対信用しない。
「……薫が、私のこと好きでいてくれる、って気持ちは本当だと思う」
 そう、そうだよ、奈美里。俺、ほかの人のためじゃ、あんなことできないよ。
「私のために、あんなに必死に、いろいろ戦ったりしてくれた。すごい感動した。うれしかった」
 でしょう、奈美里? もう一度やれって言われたって、俺できないよ。
「だからわかんなくなっちゃったの。薫、きっとまた浮気するよ」
 しない、しないよ、奈美里。
 灰色の霧の中で、一人佇んでいる。出口が見つからない。
「……それにね、私も、薫のこと、もう愛してるって言えないの。好きは好きなんだけど……もう今までと同じじゃない」
 薫は霧を払おうと手を振ったが、払えなかった。
「だから離婚しよう」
 返事ができなかった。自分の胸の中の鼓動を聞いた。どくんどくんと脈打っている。音が大きくて痛い。そのせいで、「離婚しよう」の後に奈美里が言った言葉が聞こえなかった。薫は、きゅっと自分の胸を押さえた。
「……もし」
「え?」
「もし薫がさっき言った、私を愛してるって言葉が本当で、それで私ももう一度薫のこと愛してるって思えたら。もう一度、結婚しよう」
「……奈美里……」
「もちろん、ほかの人好きになっちゃったりするかもね。お互いに」
 奈美里……奈美里、そんなこと……ないよ。……多分。
「だから、ね。そんな風にいろいろ思うから。だからこそ、もう私たち一緒にいられない」
 心が痛い。こんなに痛いのは生まれて初めてなんじゃないか、と薫は思った。

 太陽が傾き、カーテンの隙間から橙色の光が差し込んでいる。陽が顔に当たって眩しいのか、薫は「ううん」という声を洩らした。奈美里はカーテンを引いて、隙間を閉めた。
 話し合いの後、また寝てしまった。疲れているのだろう、無理もない。
 薫がまだ起きなそうなのを確認すると、寝室を出た。テーブルには、自分の置いた離婚届がそのままになっている。
「後で書いてもらおう」
 それを明日、昼間に取りにきて、出しに行こう。
 奈美里は、当座の生活に必要なものの荷造りと、身支度を終えたところだった。
 さっき、薫に聞こえるか聞こえないかの小さな声で言ったのは、「……こんな私でも、もう一度……」だ。
 わからない。やっぱり自分には無理なんじゃないかと思えてくる。
 今夜はとりあえずビジネスホテルにでも泊まって、明日からの泊まる場所を考えよう。
 奈美里は、かばんを持って靴を履くと、薫を起こさないように静かに玄関のドアを開けた。

                      了


#創作大賞2023

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